とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

メモ:2000〜2012年私的面白かった作品リスト(TVアニメ編)

テストが終わったのでぼちぼちブログも更新しようかと思います.

今期のアニメでは今のところ『たまこまーけっと』が面白いです,前期からのひき続きでは相変わらず『銀河へキックオフ』が素晴らしい.

 

最近人と話をするときに,「あの作品面白かったけどなんだっけ?」と思い出せないことがあるので,忘却しないようメモにまとめることにしました.一応,私の好きな作品の傾向が反映されているので,ご興味があったら最後まで読んでくださると幸いです.

 

・2003年

R.O.D-THE TV- ☆☆

監督:舛成孝二 シリーズ構成:倉田英之 音楽:岩崎琢

形態・・・2012年,レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・美少女アクションとよく練られたストーリーに最後まで惹きつけられた.

 

カレイドスター ☆☆☆☆

監督:佐藤順一,平池芳正 シリーズ構成:吉田玲子 音楽:窪田ミナ

形態・・・2010年,レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・女の子が努力する姿って素晴らしいと思わせてくれる作品,見ると元気が出る.

 

デ・ジ・キャラットにょ 未評価

監督:桜井弘明 シリーズ構成:池田眞美子 音楽:増田俊郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・面白かったという記憶しかない,アニメ見るきっかけになった作品なので思い入れが深い.

 

プラネテス ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:中川幸太郎

形態・・・2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・タナベの強さに憧れます,雪野五月さんは敬愛する声優の1人です.

 

・2004年

舞−HIME ☆☆☆☆

監督:小原正和 シリーズ構成:吉野弘幸 音楽:梶浦由記

形態・・・1回目リアルタイム視聴.2回目2011年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・梶浦由記さんの音楽を知るきっかけになった作品.人がばったばったと死ぬのが当時印象的でした.因みにラストの展開には納得しなかった派です.

 

蒼穹のファフナー ☆☆☆☆☆

監督:羽原信義 シリーズ構成:山野辺一記冲方丁 音楽:佐橋俊彦

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・ロボットアニメの中では一番好きな話.今をときめく冲方丁さんが脚本を務められています.

 

2005年

ARIAシリーズ ☆☆☆☆

監督:佐藤順一 シリーズ構成:佐藤順一 音楽:Choro Club feat.Senoo

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・出来事の見方を変えるということを教わった作品.

 

かみちゅ! ☆☆☆☆

監督:舛成孝二 シリーズ構成:倉田英之 音楽:池頼広

形態・・・2011年レンタルDVDにて全話視聴

一言・・・見てて癒される作品.今ではあまりみない恋する女の子の可愛さをストレートに描いたところがポイント.

 

ガン×ソード ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:倉田英之 音楽:中川幸太郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・すげーエロかった記憶.

 

交響詩篇エウレカセブン ☆☆☆☆

監督:京田知己 シリーズ構成:佐藤大 音楽:佐藤直紀

形態・・・2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・純粋に少年が経験を通して成長する物語って描かれなくなりましたね.

 

舞ー乙HIME ☆☆☆☆

監督:小原正和 シリーズ構成:吉野弘幸 音楽:梶浦由記

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・舞−HIMEと比べてより美少女の魅力が発揮される作品になったかと思います.ラストもこっちの方が好み.

 

・2006年

ウィッチブレイド ☆

監督:大橋誉志光 シリーズ構成:小林靖子 音楽:宅見将典

形態・・・Gyaoにてリアルタイム視聴.

一言・・・母親が戦闘で娘を守るという設定が当時新鮮だった記憶.

 

コードギアスシリーズ ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:中川幸太郎黒石ひとみ

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・1期のラストの放置っぷりはちょっとなぁ.シャーリー大好きです.

 

・2007年

がくえんゆーとぴあまなびストレート! ☆☆☆☆☆

監督:チームまなび部屋 ストーリーディレクター:金月龍之介 音楽:三澤康広

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年Blue-Ray BOXにて全話視聴

一言・・・青春を感じさせてくれる作品,一番好きなアニメの一つ.

 

シゴフミ ☆☆☆

監督:佐藤竜雄 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:七瀬光

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・1話と2話の素晴らしさ.

 

かんなぎ ☆☆

監督:山本寛 シリーズ構成:倉田英之 音楽:神前暁

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・ナギ様とOPにしびれた.じっくり見るというよりながら見したいアニメ.

 

けいおん!シリーズ 1期☆☆ 2期☆☆☆ 

監督:山田尚子 シリーズ構成:吉田玲子 音楽:百石元(F.M.F)

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年レンタルDVDにて視聴.

一言・・・1期より2期が好きです.

 

バンブーブレード ☆☆

監督:斎藤久 シリーズ構成:倉田英之 音楽:仙波清彦

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・カレイドスターに続き,広橋涼さんの魅力を引き出した一作.

 

・2008年

ef シリーズ ☆☆☆☆☆

監督:大沼心 シリーズ構成:高山カツヒコ 音楽:天門,柳英一郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・かけ続ける電話や紙飛行機など,記憶に残る演出が多いです.

 

・2009年

GA 芸術科アートデザインクラス ☆☆

監督:桜井弘明 シリーズ構成:待田堂子 音楽:安部純、武藤星児

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・2期やらないかなぁ.

 

そらのおとしものシリーズ 1期☆ 2期☆☆

監督:斎藤久 シリーズ構成:柿原優子 音楽:岩崎元是

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・兵器としての女性の葛藤と恋とか,ギャグの中にも結構重いテーマが見え隠れしていて面白い.

 

大正野球娘 ☆

監督,シリーズ構成:池端隆史 音楽:服部隆之

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・1クールでよくまとまった佳作という感じ.これもスポーツ少女.

 

夢色パティシエール ☆☆

監督:鈴木行 シリーズ構成:山田隆 音楽:大橋恵

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・悠木碧さんといえば個人的にこれ.

 

・2010年

ジュエルペットてぃんくる☆ ☆☆☆☆☆

監督:山本天志 シリーズ構成:島田満 音楽:浜口史郎

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目以降DVDにて視聴

一言・・・生きててよかったと思える作品.

 

ハートキャッチプリキュア! ☆☆☆

プロデューサー:梅澤淳稔 シリーズ構成:山田隆 音楽:高梨康治

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・プリキュアシリーズではダントツ.

 

・2011年

花咲くいろは ☆

監督:安藤真裕 シリーズ構成:岡田麿里 音楽:浜口史郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・2011年ならこれかなぁ.

 

・2012年

人類は衰退しました ☆

監督:岸誠二 シリーズ構成:上江洲誠 音楽:大谷幸

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・中原麻衣さんにしか出来ない演技,中原麻衣さんだからこそ出来た作品.

 

こうやって自分の中で概括していみると2007年に好きな作品が固まっていることがわかりました.2008年が少し不作でそこでアニメ離れを起こしてから,見るアニメの本数が減った感があります.

こうやって自分の好きな作品を並べると自分でも意識してなかった発見があり面白いです.好きな作品のスタッフが共通していることが多く(谷口悟朗監督,倉田英之さんなど),スタッフと嗜好の相性について考えさせられました.

 

 

 

 

断絶の象徴としての「天使」~映画けいおん!に見る梓の断絶~

メリークリスマス! 皆さんクリスマスイブはいかがでしたでしょうか?

私はけいおん!に癒された例年にない良いクリスマスだったと思います.

 

という訳で本日は映画けいおん!について思ったこと、特に「天使にふれたよ!」とあずにゃん問題についてつらつら述べてみようと思います.

 

けいおん!2期では梓視点で物語が進行していましたが,映画けいおん!では唯視点で物語が進行しています.これは,映画けいおん!が先輩メンバーから梓への継承を描いている物語だからです.

 

ここで注意したいのが,視点の変化があるにしろないにしろ,梓は徹底的に受動的な存在だということです.

 

梓が受動的な存在であることは私たち視聴者にとっては非常に心地よいものになっています。それは、梓=視聴者という構造のため、梓を中心とした擬似ハーレムが形成されているからです。

ところが、梓と唯達は学年が1つ離れているため、卒業後、必然的に梓は一人取り残されることになります。

 

そこで、今回の映画では、

「卒業する私達が梓にどのようなメッセージを残すか」

というテーマのもと物語が描かれています。

唯たちが梓に残したメッセージというのが、TV版でも流れた「天使にふれたよ!」であり、映画はテレビ中で明かされなかった歌詞の意味や、誕生秘話の物語でもあります。

 

さて、この「天使にふれたよ!」ですが、タイトルに含まれる「天使」とは「梓」を表しています。

ここでの天使の意味は、おそらく唯たち4人の軽音部メンバーに「幸福をもたらした存在」ということだと考えられます。

 

一見美しい比喩である「天使」ですが、この言葉は唯たちと梓との「断絶」を象徴的に表しているように思われます。

上述したように、梓=視聴者のため、唯たちと梓は同列の存在ではありません。同列の存在ではないということは、物語内において視聴者の感情移入の対象となるため特別な地位にあるということです。(たとえばドラえもんでのび太の扱いとジャイアンの扱いは同列ではありません。※といっても物語の視点の中心であるということ、と感情移入の対象であることは別に考えなければなりません。)

そのため、唯たちと梓は、登場人物の地位として「断絶」しているのです、

また、唯たちは卒業してしまうので、物語の流れとしても梓と唯たちは「断絶」しなければなりません。

 

このように、2重の意味で梓と唯たちは断絶しており、「天使」という言葉は、

「あなた(梓)は私たちにとって天使ではあるけれども、決して私たち(唯たち)とは相容れない存在」ということを象徴しているように思えます。

 

では、梓が唯たちと断絶することはマイナスなのでしょうか。

唯たちが卒業し梓が取り残されるということは、視聴者の現実への回帰を促す作用をもっています。何故なら唯たちがいない、擬似ハーレムの崩壊は、視聴者と唯たちが「断絶」していることを視聴者に認識させるからです。もちろん徹底的な断絶ではなく、「来年はあずにゃんの卒業旅行に行こう」という接続への希望を残してではありますが。

 

つまり、映画けいおん!で描きたかったのは「梓(=視聴者)と唯たちは卒業後(物語が終了後)もずっとつながっているよ。軽音部という環境はあなたにとって居心地のよい空間ですよ」ということではなく、「梓(=視聴者)と唯たちは徹底的に断絶しており、それは唯たちの卒業(物語の終了)によって嫌でも認識せざるを得ない。そして視聴者は逃避から脱却しそれぞれの現実世界へ戻らなければならない」ということではないかと考えられます。

 

あずにゃん問題が語られる背景も「梓が軽音部に一人でいること」よりも「梓(=視聴者)が取り残されること」のほうが実は重要なファクターなのではないでしょうか?

 

 

  

ガールズ&パンツァーの気持ち悪さについて

今日はガールズ&パンツァーを観て思ったことを断片的にですがまとめておこうと思います.

私がガールズ&パンツァーを観て思ったのは一言で言うと「気持ち悪さ」なのですが,この気持ち悪さがどこからやってくるものなのか考えてみました.おそらくこの気持ち悪さは「こんなに私のリアリティから解離した世界なのに,面白いと思えている」ということからきているのではないかと思います.

 

今まで,私のリアリティから乖離した作品って,全くのめり込むことが出来ず2〜3話で切ってしまっていたのです.(SAO,ラグランジェとか...)しかし,このガールズ&パンツァーはリアリティを全く感じることが出来ないのですが,作品として(ある程度ですが)楽しむことが出来,その感覚を気持ち悪いと感じてしまったのだと思います.

 

そこで今回の問題設定は「現実世界から遊離した世界でどこまで感動できるのか」ということです.

 

ガールズ&パンツァーは「戦車道」や「学園艦」が登場してくるといった,世界観が現実とかなりかけ離れている世界観を採用しています.しかも,部活で戦車という兵器を扱い,安全面に全く考慮していないあたり,部活動としても学校競技としてもかなり危険です.(あれですか?柔道必修化への皮肉ですか?)

 

そのようなあやふやな世界設定でも人が感動できるということは,「最早ドラマに世界観は必要ない」ということでしょうか?

 

もしそうだとすると,世界観だったり設定というものは,ある作品を構成する上での歯車となり強調するような「システムの要素」足り得ず,取っ替え引っ替え可能な記号に過ぎなくなります.そこでは記号同士の整合性は無視され,記号の順列組み合わせ的世界が生成されることになります.

  

極端な例では,貧乏女子高生が部活で政党を組織して地方自治,そして貧困に強い世の中を!なんていう話も可能になります.各地方のGDP上昇率で競う全国大会とかね...(面白いかどうかは置いといて)

 

今可能かどうかは分かりませんが,ガールズ&パンツァーという作品が生み出されたことで,今後そのような,記号の順列組み合わせ的世界,物語が加速するのではないかという危惧があります.

 

ところで,そのような順列組み合わせ的世界が可能になったとしても,経済合理性から,面白くない作品は淘汰されます.

 

ガールズ&パンツァーの上手さ,面白さは,あいまいな世界観に対して「徹底した一人称視点と人物描写」だと思います.

キャラ数が多くなると描写が散漫になり,第三者視点,俯瞰を多様しがちになりますが,ガールズ&パンツァーにおいては基本的には主人公であるみほを中心に描かれており,みほから見る世界が描かれていると言えます.(例外はありますが

 

ガールズ&パンツァーが最終話に向けてどのような語りを用意しているか分かりませんが,昨今のアニメを象徴する存在として最後まで注視していこうと思います.

 

 

美少女のアニメを考える(2)

昨日に引き続き,本日は「美少女の語り」の変化を考えてみようと思います.

昨日の自分のエントリが大分訳わからなくなっているのですが.とりあえず続けてみようと思います.

一応,「語り」についてざっくりと私なりの認識を述べておこうとおもいます.
このエントリで私が想定している「語り」とは,単純な会話やモノローグではなく物語的に重要な場面でのセリフで,そのキャラの感情がこもったものというものです.

美少女の語りの変化を考えるために,まず新美少女アニメ以前の「美少女の語り」について考えてみようと思います.

1.男性主人公ものにおける美少女の語り
男性主人公ものにおけるヒロインの語りは,基本的に「男性主人公(=視聴者)への語り」が基本となっています.
例えば,「ああっ女神さまっ」におけるベルダンディーの役割は,螢一のサポートに尽きます.
ギャルゲものの女性キャラクターも,男性主人公に対して「事件」だったり「安心」をもたらすものです.
エヴァンゲリオン(旧劇)」における女性の語りは主人公に「謎」や「選択」をもたらします.

2.少女漫画ものにおける美少女の語り
少女漫画ものにおける女性主人公の語りは「自分の感情の吐露」であると考えられます.
これは,男性主人公作品の主人公の語りと近いものがあります.但し女性漫画ものの場合,
「女性らしさ」を大きく打ち出す語りになっていることが特徴的です.

3.女児向けアニメにおける美少女の語り
女児向け,男児向け問わず,子供向けアニメの主人公の語りは「道徳的な語り」になりやすい傾向があります.これは,子供向け作品が往々にして教育的な役割を担っていることが大きいです.
例えばプリキュアシリーズでは,悪役に対してプリキュアたちが正義を語り,武力によって成敗するという物語が描かれています.

以上,新美少女アニメ以前の美少女ものについて美少女の語りを例を挙げて述べました.

次に,新美少女アニメにおける美少女の語りを考えています.

美少女アニメにおける語りを考える上でキーワードとなるのが,「ユニセックス」と「日常」です.

昨日述べたように,新美少女アニメにおけるキャラ同士の関係性は「部活的」人間関係の上成り立っており,キャラの世界は「日常」の延長線上にあります.従ってそこで語られる内容もあくまでそれらのコンテクストをバックにした発言になります.
「部活的」「日常」から生まれる語りは「世界」と比べ矮小化されます.なぜなら,ありきたりな「部活」や「日常」からはありきたりな言葉しか紡がれることがなく,多様な思考,感情,イデオロギーから生まれる言葉が不可能になるからです.語りの画一化といってもよいでしょう.

また,女性が「ユニセックス化」することで,彼女たちが語る言葉は男女の区別をジェンダーとして(セックスとしても)無効化したなものとなります.例えば男女がどちらも存在する場で,ある語りを「男が行ったか」,「女が行ったか」は極めて重要です.ところが,「女性(男性)しかいない場で女性(男性)が行う語り」は「女性」が語ることの意味を失わせます.

これら2つを踏まえると,彼女たちの発言は画一化,矮小化された極めて薄っぺらなものとなります.
そして,このように薄っぺらな語りは時として陳腐化して,視聴者の共感を得られにくくなっていると考えられます.

おそらく批判される作品の中には,彼女たちの言葉が陳腐化しており視聴者からの共感を得にくくなっていることが批判される原因の一つになっている場合があると考えます.

これらのことを総括すると,私の考えとしては「新美少女アニメにおける美少女の語りは画一化,矮小化されており,時として視聴者からの共感を得にくくなっている」となります.

もちろん今の私の考察(もとい妄想)はかなり結論ありきですすめられており,客観化されておらず納得行かない点も多々あります.また,新美少女アニメの中にも感動できる作品も多々あり,「視聴者の共感を得られない」なんていう私の杞憂を跳ねのけるような力強さを備えています.

但し,昨今のアニメにおける,「あるアニメにのめり込めるかどうか」を考える上で「世界観のリアリティ」も大事な基準となりますが,それと同時に「キャラの語りのリアリティ」も考える必要があるのではないかと思います.

次回は,具体例として「ガールズ&パンツァー」における美少女たちの語りについて考えてみようと思います.

美少女のアニメ考える(1)

ガールズ&パンツァーを観てて思ったのですが,近年では「きらら」を始めとして女の子だけが活躍するようなアニメが流行っているようです.
今回は,「女の子だけ」のアニメと,「女の子が主人公」であるアニメを比較して,女の子が主人公である理由や,女の子だけの空間について考えてみようと思います.

少女,美少女が主人公や重要な地位にあるアニメは以前のメインストリームでは以下の3つに大別されるものが大半でした.

ギャルゲもの:男の子1人に対して,1人もしくは複数の女の子が恋愛感情にある恋物語.※これは男主人公の場合が多い.(ラブひななど,
女児向け  :女児をターゲットにしているアニメ.小学生〜中学生の女の子が主人公であることが多い.(おジャ魔女など
少女漫画  :女の子主人公1人に対し,恋愛対象となる男性が1人または複数いるアニメ.男女間の恋愛(恋愛感情)を基軸に物語が進行する.(フルーツバスケットなど

つまり,今までの物語の女性の扱いというのは,「男性から見た(セックスの対象としての)女性」かもしくは「女性が描く女性」であったと言えます.

それに対して,近年では,以前では男性主人公を中心に語れることが多かった物語が女性主人公を中心として描かれることが多くなっています.
スポーツ:バンブーブレード,大正野球娘など
SF,ロボット:輪廻のラグランジェ,宇宙をかける少女,など

ここで注意しなければならないのは,これらの作品群は今までの美少女&ロボットものとは一線を画すということです.
美少女&ロボットというのは,往年の作品で言うと「トップをねらえ!」や,「エヴァンゲリオン」など,ヒロインがロボットに乗り込み戦うという作品を指して使われてきました.
ここでの美少女とはあくまで「セックス」としての女性であって,男性からの視線を意識した女性でした.
また,少女は男性の付属品や代替品であることが多く,「戦隊もののピンク」的なポジションに甘んじる事が多かったです.

それに対し,近年の美少女ものは登場人物の大半が女性であり,女性がロボットに乗ることへの特権性などが意識されることは殆どありません.また,登場人物の大半が女性になることによって男性的な目線が排除されています.

例えば,近年の作品では「輪廻のラグランジェ」が好例と言えます.この作品では,主人公の京乃まどかはあくまでも「ジャージ部部長」であり,背景に横たわる世界の危機などは完全に見えなくなっています.また「大正野球娘」は,物語の動かす理由として「男性に対抗する」という意識があり,男性の目線を意識するシーンも見られましたが,基本的には終始女性の「部活」としてで物語が構成されていました.
このような,女性が主体となって語られる作品群を暫定的に新美少女アニメと呼ぶこととします.

美少女アニメに含まれるアニメを以下に示します.
がくえんゆーとぴあまなびストレート!,けいおん!ひだまりスケッチソ・ラ・ノ・ヲ・トみなみけ,咲,かなめも,とある科学の超電磁砲etc
今回のガールズ&パンツァーも,新美少女アニメにカテゴライズされるものであると考えられます.

このような,新美少女アニメはそれまでと比べてどのように変化したのでしょうか?

一つ考えられるのは,「シニフィエの変化」です.
上述しましたが,男性が排除されることにより「性の区別」が失われます.それにより,必然的に女性であることの意味が変質していると思われます.

今まで物語内に男性と女性が存在することにより異性間相互作用(異性の目線,その意識,恋愛感情)が生じていました.そして,あるキャラ同士がヘテロか,ホモか,ホモでも男性同士か女性同士かで関係性が大きく変わっていたわけです.しかし物語内に女性しかいないと関係の多様性が狭まります.そのため,生じるドラマの多様性も失われます.
これに対抗して生まれたのが「百合的なもの」であると考えられます.「対抗して生まれた」と書きましたが,女性同士の物語を紡ぐために「百合的なもの」が生まれたのではなく,女性同士の物語を紡ぐ上で「百合的なもの」が便利であったのでそれを用いたという認識です.
ともあれ,「百合的なもの」を活用することにより女性同士の物語を描くためのハードルは大きく下がったと言えます.

そして,男性を必要としない女性同士の関係が「女性であることの意味を失い」,且つ今まで男性が担ってきた恋愛感情を「(百合的なものによって)女性が代用することになり」,結果としてこれらの女性達は女性でありながら,女性を超越するユニセックス的な存在となりました.

※但し,女性のキャラクターの多様性をもたらしたのはあくまで男性の目線によるものであったことを忘れてはなりません.

次に,新美少女アニメはあくまで「日常」の上に描かれており,「部活的な人間関係を持っている」ことが挙げられます.
これには,「4コマ萌え漫画(あずまんが大王,「きらら」,みなみけなど)」の影響と「セカイ系」の影響が大きいと思います.
セカイ系」により,私たちの日常の延長線上に世界の危機が存在するという物語が可能になりました.
今まで,「国家」や「世界」というものを背景にして語られてきた主人公の物語は「日常」の物語に矮小化され,「日常」と「世界」が接続することになりました.
また.「4コマ萌え漫画」により,女性同士の「日常」を面白おかしく描くスタイルが確立されました.これらの作品群には「部活的な人間関係」が多い理由は,部活的な人間関係が使いやすいこと,既に部活的人間関係の関係性が確立していたことが大きいと思います.(例えば,先輩後輩,仲間,友達,恋愛関係など
これら2つの影響により,女性同士の「日常」がそのまま「世界」に接続する物語が語りやすくなった,と言えます.
上述の例ではどちらも「部活」を中心として人間関係で構成されている日常の地平線上にある物語です.


さて,新美少女アニメの構成について見てきましたが,続いて「美少女が語ることの意味」について見ていきたいと思います.

次号へ続く...

誕生日と,教育について一塾講師が思うこと

昨日23歳の誕生日を迎えた某塾講師ことしがない大学生です.今年は「自立」をテーマに頑張ってみようと思います.

久しぶりのブログ更新となりましたが,本日は塾の運営と講師をテーマに投稿してみようと思います.(アニメネタでなくすいません(^_^;))

就活中の友人に聞いたのですが,最近塾講師志望の大学生が多いらしいです,どうやら,バイトで塾講師にのめり込んで,今の職場で働きたいと思う方が多いみたいです.

私は,塾講師というバイト先は(バイトとしての)長所短所がはっきり出る職場だと思っています.つまり,「自分には向いている」「自分には向いていない」がはっきりしているバイトということです.

というのも,塾講師の場合,かなり自分の采配で業務に積極的に関わることが出来るからです.

例えばコンビニの場合,いくら自分が業務に対して積極的な感情を抱いていたとしても任される仕事は発注がいいところと言えるでしょう.

それに対して,塾講師の場合,保護者,生徒の方と一対一の関係になれるため,かなり責任感のある仕事を出来ることがあります.(これは会社によって差があるかもしれません)
これが塾講師の醍醐味だと思うわけですが,このようなシステムは一方で二極化を生む可能性を孕んでいます.

二極化とは,「業務に対して積極的になれる人」(極端に言うとバイト戦士というやつです)と「業務に対して積極的になれない人」(ながらバイトとでも言っておきましょうか)の差が激しくなるということです.

このような二極化が進行すると私が考える理由としては「業務に自由に関われるが故に,コミュニティに同調圧力が生じる」からです.

例を一つ挙げます.10人のバイトと1人の社員がいるコミュニティがあるとします.バイトの中に2人「バイト戦士」がいると,彼等が中心となって「バイト職員のスキルアップ」の取り組みが始まります.そうすると,そのような環境に順応出来る人と,「めんどくさい」として業務からエスケープする人の分離が始まります.
問題なのは,塾講師の場合,一旦積極的に関わり始めると抜け出せなくなるというジレンマが’あることです.
これは,他のバイトと異なり塾講師の場合,バイトでも保護者や社員に「この職員ならこのような授業をしてもらえる」「このような仕事を任せられる」という期待に繋がりやすいことが大きいです.

このように,塾講師というバイトは職への自由度が高いゆえに一度嵌ると抜け出せない蟻地獄のような構造になっていると言えます.

塾講師のバイトに対して否定的な意見を書き連ねましたが,一方でこのようなシステムは職員のアイデンティティを増長する役割を果たしています.つまり,「ここにいる意味」を探しやすいということです.
これは,上述したように塾講師がある程度代替不可能な職業という側面を考えていただければ容易に納得して頂けると思います.



さて,私が問題提起したいのは,塾講師がこのような環境に置かれることで,「塾の職員が先細りするのではないか?」ということです.

私は何事においても「多様性」というものが大事であると考えています.(賛否両論あるかもしれません)
これは塾講師においても同様です.この場合の多様性とは即ち,「やる気のある講師とあまりない講師がバランスよく配置されている」ということです.

塾に生徒を預ける側としては,講師がやる気に満ちあふれていることが嬉しいに越したことはないですが,バイトは世を動かしている塾業界,中々そうも行きません.

そうすると,バイトが「やる気にあふれた人」で先鋭化することは一見よいことに見えますが,これはかなり危険であります,

何故なら,そのような環境になった場合,やる気のない人がどんどん退職し,「やる気のある職員」のみが授業を受け持つようになり彼等の負担が増大するからです.

このような環境では,いざやる気のある職員が病気になったり,鬱で退職したりすると均衡が崩壊します.

それを避けるため,職員の多様化をもたらし,「ある程度やる気がなくても働ける職場づくり」が必要と私は考えます.

これはある意味社会主義的であり,賛同されない方も多いと思います.

しかし私は,このような正規職へのハードルが高い今だからこそ職のスキルそのものへのハードルを下げてやる必要があるように感じます,

もしくは,職へのハードルを下げずに,職へのインセンティブを上げるという解決策もあります.これは,具体的な例を挙げると「あの人がいるからこの職場で働きたい」というような意識を従業員に持たせることです.

しかし,これはそのリーダーが交代するとシステムが容易に崩壊します.

そのため,塾業界で必要とされるシステムとは「誰が働いてもいいけど,誰もがやりがいを感じることが出来る職場」であると思います.

これは二律背反であると思われますが,実現不可能ではないと思います.

それには,バイトレベルで要求される仕事を社員が吸い上げ,社員が適宜アドバイスするということです.

これは,今まで「バイトが積極的に関われていた」関係を打ち切りバイトと社員の関係をはっきり分けることです.

これにより,バイトの管理を通して「誰が働いてもいいけど」を実現し,一方,社員のアドバイスを通じて「誰もがやりがいを感じることが出来る」職場を実現できると考えます.

重要なのは,責任ある立場の人が管理を徹底することです.
但しそれは同調圧力的なものや,パワハラ的なものではあってはならず,あくまでアドバイスに留めることです.

今バイトをしている若者世代は,私が言うのは憚られますが極めて真面目であると思います.
大事なのは,それを管理し誘導する上の世代の技量です.





今後の塾業界を支える上で益々バイトの役割は重要になっていくと思います.その中で,「如何にバイトが働きやすい(圧力を感じずに働ける)環境を作るか」が今後問題になっていくような気になって仕方がありません.

ポーの一族

ポーの一族のテーマの一つは「生と死」である.『ポーの一族』の第1話でエドガーはこう述べている.「…なぜ生きているのかって… それがわかれば! 創るものもなく生みだすものもなく うつるつぎの世代にたくす遺産もなく 長いときをなぜこうして生きているのか …すくなくともぼくは ああすくなくともぼくは…」  エドガーを始めとする「ポーの一族」,別名バンパネラは老いることなく永遠の刻を過ごす.エドガーは「なぜ生きてそこにいるのだこの悪魔!」  という罵倒に,上のようにペシミスティックな思索で応えるのである.このように,永遠の刻を生きるバンパネラが,人が生きる社会をどのように生き,干渉するのかが今作の大きなテーマである.
2人のバンパネラであるエドガーとアランは,旅を重ね,生を送って行く中で様々な人間と出会う.ある時は,山賊に家族を殺され,一人残された娘の世話をしたり,ある時は秘密を知られたクラスメートをバンパネラに変えてしまったりする.またある時は女性に対して恋心を抱く…そのような経験が果たして何をもたらすのか.
最終話,アランを失ったエドガーは炎に包まれた家の中で,昔を回想しながら次のように思う.「…帰ろう帰ろう 遠い過去へ… もう明日へは行かない 昔昔の幸せ 帰ろう帰ろう時を飛んで みんなみんな …アハハ …アハハ みんなみんな… …あはは」  このように,エドガーは最期に自らの時を進めることを放棄する.(但し,その後エドガーが本当に死んだかどうかは定かではない)
上のエドガーの思索を踏まえると,先ほどの「エドガーの経験が何をもたらすか」という問いの答えは,少なくともエドガーに対しては何ももたらさなかったと言える.しかし,果たして本当にそうだろうか.
 エドガーとアランが旅を続けてきたのは,単に生きるためだけに生きるのではなく,生きることの喜び,また生き続けることの目的があったのではないだろうか.
生きることの喜びという点では,例えば「リデル森の中」で,エドガーとアランがリデルという女の子を育てる話で見出される.この話は上述したように,家族を失った娘を2人のバンパネラが育てるのであるが,ここで彼らは明らかに「人と関わることに生の喜びを見出している」のである.
これは,彼らがいくらバンパネラになったとしても人の心を持ち,人として生きたいという欲求を備えているということである.
もう一点の生き続けることの目的という点では,「メリーベルの存在」が挙げられる.メリーベルは第一話で殺されてしまうのであるが,エドガーはアランと二人になった後も彼女の事を考え続ける.そして,様々な町,様々な人々との出会いの中に彼女の面影,彼女との思い出を見出そうとする.
このように,エドガーとアラン,バンパネラという死を忘れた存在であっても,人と関わることにより人のように生きることが可能ではないのだろうか.
次に,バンパネラと関わりをもった人々の事について考える.これらの人々についてはそのケースに応じて明暗が分かれている.例えば,上述したリデルの場合,二人と別れた後もきちんと育てられ,2人の記憶を湛えながら生を全うする.逆に,「ホームズの帽子」で登場するジョン・オービンはバンパネラの秘密に魅せられてしまう.また,「小鳥の巣」で現れるマチアスは二人の正体を知った故に結局死んでしまう.
バンパネラと関わることが,人にとって悪夢となるか,それとも福音となるかは分からないが,その人の人生を変えてしまうことは確かである.だが,それはバンパネラに限ることではない.
我々はこの社会を生きている中で,様々な人と出会い,成長し,恋をして大人になる.それは,バンパネラであるアランがエディスに恋をすることや,その姉であるシャーロッテを助けられず後悔することと全く等価な経験ではないだろうか.また,長い刻を生きるエドガーがメリーベルの面影を追い求めることや,アランをバンパネラに変えてしまうことも…
我々にとって大事なのは,何と出会い,どう関わるか,すなわち「どれだけ生きるか」よりも「どう生きるか」ではないだろうか.『ポーの一族』にはバンパネラという「永遠の生を生きる存在」を描くことで,逆説的に「今を生きることの有意味性」を描き出そうとしているように感じられる.