とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

少女漫画と、女性目線・男性目線

最近では、少女漫画を男性が読むというのが当たり前になってきています。

 

少女漫画の中でヒットした作品はアニメ化し、更に話題性を増し、中には実写映画化しているものもあります。近年では、『ちはやふる』、『となりの怪物くん』、『好きっていいなよ。』などが話題になり、『好きっていいなよ。』については7月に実写映画化が予定されているという状況です。

 

そんな少女漫画ですが、どうやら男性と女性で観る視点が異なるようです。

というのも、先日ある女性と『君に届け』という作品の話をしていたとき、私が「主人公のさわ子が可愛くない」と言ったら、彼女には「女の子が可愛いかどうかは余り関係がない」と返されました。

彼女いわく、少女漫画の魅力は「主人公の女の子がどういう男の子と出会って、どういう展開になるか、ライバルの女の子がどうか」といった「主人公の女の子がどのようにちやほやされるか」や「どのような邪魔が入るか」などということでした。

これはつまり「主人公目線でどのように物語が展開されるか」に主眼を置いている見方であると言えます。

 

一方で、私たち男性はおそらく少女漫画を読むとき、「男性」には注目していないと思われます。その漫画にどんな男性が出てきてどんな展開になるかにはさして興味がないのです。

その代わり、男性がどこの注目しているかというと先ほど述べたように「女の子の可愛さ」ではないかと思うのです。

私は『となりの怪物くん』という作品が好きなのですが、この作品の魅力は多様な人物の群像劇と、それぞれの女性陣のコンプレックスと絡めた心の動きの描写だと思っています。

雫の「勉強だけが心の支え」という状態から、春や他の登場人物と出会って、ぶつかって、恋をして、その中での心の葛藤が上手く、そして可愛く描かれているのが魅力だと思います。(まぁ私の好きなキャラはあさ子ちゃんなのですが

つまり、私(≒男性)は少女漫画を読むときは、女性の描写、そして心の葛藤、成長を観ているのではないかと考えられます。

 

ここに、女性と男性での少女漫画の見方の分かれ目があるのではないでしょうか。

 

少女漫画に限らず、多くの読者層にヒットを飛ばす作品というのは、女性・男性どちらの目線でも楽しめるように上手くバランスが取られているように感じます。

女性一人に対して男性複数という典型的な作品では男性からの支持を集めるのは難しいです。逆に、男性一人に女性複数のハーレムというのも女性受けは悪いでしょう。

 

もっと言ってしまうと、「男性だけに受ければいい」というスタンスで作った男性向けの作品は、余り面白くありません。そういう作品は須く女性がカテゴライズされているからです。

「男性が描く女性」という紋切り型はよくありませんが、先日のエントリでも述べたように、男性向け作品の多くの女性キャラは既成のギャルゲ・ラノベ文化の煽りを受け極端に「記号化」されています。そのような記号化された「お約束の女性」のどこが可愛いのでしょうか。

少女漫画で描かれる女性では、このようなギャルゲ文化の記号化を避けた「人間らしい」女性が描かれています。

 

女性には「女性の人間らしさ」を描く力があると思います。

大ヒットを飛ばした『けいおん!』は山田尚子監督、堀口悠紀子さん、吉田玲子さんといった女性陣が作り上げました。また昨今様々な作品で引っ張りだこの岡田麿里さんも女性です。

 

けいおん!』で描かれたのは、「日常系」と呼称するに相応しい女の子の「日常」でした。「普通の高校の女の子が軽音部でお茶をする」というアニメ化するには全くふさわしくない設定を30分飽きさせないどころか、毎週観させるだけの強度を持ったキャラクターを作り上げたのは山田監督初めスタッフの面目躍如でした。

一方、岡田麿里さんの場合、「いかにもアニメ的な設定の女の子」が「普通の女の子みたいにまじめに葛藤する」というキメラテックな状況をキャラクターに背負わせることで、ドラマティックな展開を生み出しているように思います。

 

他にも、女性だからこそ描くことができる可愛い女の子という例は枚挙にいとまがないのではないかと思います。

 

思うに、「記号化した女性」に飽きた男性が求めているのは、女性が描く「活きた女性」なのではないでしょうか。

 

 

『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』とオタク論 

今日は映画『たまこラブストーリー』の舞台挨拶に行ってきました。

 

最近BS・CSに加入したこともあって映画を観る機会が増えたのですが、やはり映画館で観るのは格別です。

なんといっても全然作品への集中力が違う。おそらく

・能動的に予定を立てている

・お金を払って見ている

・劇場という閉鎖された環境に閉じ込められている

といった理由から、作品に没頭できるのではないかと思われます。

家だとどうしても携帯見たり、トイレ行ったりして集中して見ないですからね。

 

 

それはさておき表題の件。少し古いのですが『俺ガイル』の話と今期アニメの話を絡めて書こうと思います。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の基本情報は皆さんご存知でしょうし、今の時代知らない単語はWikipediaで全て調べられますので割愛。

 

私はこの作品が、当時、円盤の枚数的に非常に成功していたこと、TL上で相当数の人気を得ていること、そして2014年版の『このライトノベルがすごい!』でレコメンドされているなどの前提知識を得た上で録画していた作品を鑑賞しました。

 

前評判通り、作品は非常によく作られており人気が集まるのも納得の出来栄えだったと思います。キャラクターや構成しかり、この作品の良さを決めているファクターは様々あると思いますが、後述することにして、先日とある中学時代の友人と再会した折、この作品について話す機会がありました。

 

その友人は、高校時代からオタク道に入ったクチで、中学時代はガンダムエヴァといった作品が好きな普通の男子だったのですが、しばらく会わないうちに典型的なギャルゲー好きになっていました。

そんな彼とアニメの話をするといつもあまり反りが合わなくて、僕が好きな『たまこま』や『てぃんくる』、『まなびストレート!』と言った作品はあまり彼に刺さらず、彼は『ティアーズ・トゥ・ティアラ』や『真剣恋』などギャルゲー原作のアニメが好きでした。また、『はがない』や『SAO』も好きだったのでラノベにもある程度親和性がある人でした(どの程度好きだったかはわかりません)。

そんな彼だったので、当然 『俺ガイル』も好きだと思って話してみたら、「あれは駄作だ!」と一蹴されました。つまらなくて1話で切ったと言っていたのでそれっきり細かい話はできなかったのですが、よっぽど気に入らなかったのでしょう。

そのとき気づいたのですが、もしかしたら「ラノベ・ギャルゲ好き」というのは一枚岩ではないのではないのでは?と思いました。

 

私自身があまりアニメに強くないので、カテゴライズするとき「ギャルゲ・ラノベ枠」は一括りにして同じ層と捉えていたのですが、そうでもないようです。

 

そもそも、何で私が「ギャルゲ」と「ラノベ」が好きな層をいっしょくたにするようになったかと言うと、これらのカテゴリーには高度に記号化された「美少女キャラ」が多数登場し、キャラ描写とファンタジー世界を描く「浅い」作品が多いというイメージを持っているからでした。(この認識は今でも余り変わっていませんが、もちろん素晴らしい作品があることを否定するものではありません)

 

ところが、件の彼と話してみてそういう「ギャルゲ好き」の彼でも(人気があるとされる)ラノベに手が出ないものがあると知り、「ギャルゲ」然り「ラノベ」然りこれらの層をいっしょくたにするという認識は間違っているということに気付かされました。

 

そこで、今回は「ラノベ」層に焦点を当て、これらの作品群の嗜好の違いを分別することを試みたいと思います。

 

アニメやサブカルに限らず(もしかしたら文学も含め)、多くの娯楽作品には顧客ターゲットというものが存在します。ラノベの多くはティーン・エイジャー世代、週刊の少年誌は小学生~大学生の男(最近はそうでもない?)、少女誌は若い女性向け、一方モーニング、ビッグスピリッツなどはもっと高い年代をターゲットとしています。

ここで気をつけたいのが、ラノベと漫画という媒体の違いです。

漫画は文字に比べて読むのに時間がかからず、週刊や月刊で継続的に、その気になれば「立ち読み」という手段を以ってお金をかけずに読むことが可能です。

一方ラノベは、月刊誌等で連載を持つものもありますが、多くの作品は単行本を買って読むという形で消費されています。つまり、作品を消費するまでのハードルの高さが全く異なります。

このことから、ラノベの場合、漫画のように週刊・月刊誌を総当り的に読むというのが難しく、結果として読むラノベの数をキュレートする必要があります。

そういった背景から、ラノベの場合漫画と比較して、嗜好による選別とそういった消費者に対応した作品の多様化、そして収束化が進行していると考えられます。

作品外の要素ではこのような背景から「ラノベ」層の多様化が進んだと考えられます。

 

続いて、作品そのものの内容と読者の関係について考えてみたいと思います。

ここで、ラノベ作品を分析するために「こじらせ」という概念を定義します。

といっても「定義」というほどがっちりしたものではなく、私が抱いているイメージを言語化したものです。

「こじらせ」とは自虐と「ネタ化」を組み合わせたようなものです。自虐ネタに近い感覚でしょうか。自虐ネタの場合、例えば「自分が太っていること」や「顔がブサイク」、「しゃべり方がキモい」など自分の身体的、あるいは精神的な面で他人より劣っているとされている特徴を自分から言うことで笑いに変えます。ここで重要なのは、自虐ネタは必ず「自分自身の特徴」であるということです。

「こじらせ」では、この点が自虐ネタと異なります。「こじらせ」の場合、虐げる対象が「自分自身」ではなく「アニメ・ラノベ文化で共有されていること」となります。

「こじらせ」の例の一つとして「死亡フラグ」をあげます。「死亡フラグ」とはご存知の通り、アニメやラノベの中で、あるキャラクターが死ぬ直前に呟く言葉や場面をネタ化したものです。これが、なぜ「こじらせ」なのかと言うと、「死亡フラグ」が「死亡フラグ」としてネタ化する前のそれぞれの場面は、人の死が掛かっている非常に心を動かすものであったはずです。そのような「自分が心を動かされたもの」を「ネタ」にするのが非常に自虐的なのです。他にも「中二病」というのは、主に低年齢層向けのアニメの設定をネタにしたものです。

このように、「アニメ・ラノベ文化で共有されていること」を「ネタ化」してしまうのが「こじらせ」なのです。

 

「こじらせ」は「共有されていること」をネタにするので、あるネタをこじらせたネタを更にこじらせる…といったように「こじらせ具合」が変化していきます。「死亡フラグ」の場合は、「登場人物が死ぬ場面」から「死亡フラグ」、そして今度は「死亡フラグが存在する世界」というように、ネタ化、あるいはメタ化します。他にも「中二病」や「恋愛もののお約束」といったものについても同様の傾向が見られると思います。

ここまで読んでお気づきの方もいらっしゃる方も多いと思うのですが、先ほどの「死亡フラグ」を「こじらせた」作品は現在放送中の『がおられ』を指しています。

 

ここからが本稿の仮説なのですが、

この「こじらせ」という現象はアニメ・ラノベにおいて顕著に観察されるものであり、その原動力はオタク的な心情である。そして、ある作品が「どの程度こじらせているか」が作品の読者層に関与している。

 というものです。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は、「こじらせ」という観点から見ると「恋愛もののお約束」というネタが「こじらせ」られています。

ギャルゲーなどの恋愛ものの多くは、死亡フラグと同様に恋愛フラグというものや、恋愛ものにありがちな展開、キャラクターといったものを抱えています。

『俺ガイル』の面白いところは、そのような「ありがちな展開」をオタクの主人公という視点からもう一度捉え直すという「極めてオタク的≒こじらせている」点でオタクの心情描写が秀逸であることと、そのような「こじらせた状態」でもう一度しっかりラブコメをやっているという場面展開のコントロールの巧みさにあります。

 

さて、この『俺ガイル』という作品は上述の理由で面白い作品に仕上がっているのですが、冒頭の私の友人には受け入れられませんでした。それは、彼が「恋愛ネタ」のオリジンである「恋愛もの=ギャルゲー」を純粋に楽しんでおり、その視点からでは作品を楽しむことができなかったからではと考えます。

1サンプルから一般化するのは愚の骨頂ですが、同様に多く読者・視聴者は「作品のこじらせ具合」を基準の1つとして作品を楽しめるかどうかを判断しているのではないでしょうか。

 

傍証ではないですが、先日TL上でこのようなつぶやきを見ました。

http://twitter.com/METHIE34/status/461998239776927746

 

シドニアの騎士の場合、あまりに古典的な場面展開である故に、そういう作品でないのにも関わらず「死亡フラグ」と受け取られてしまうという、視聴者側が「こじらせて」しまっている例です。

 

 

 

ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?

4月になりました。

 

私も京都へ引っ越し気分一新大学院生です。

 

ところで4月といえば番組改編シーズン、多くの番組が惜しまれながら番組終了となりました。そんな作品の一つ、ジュエルペットハッピネスについて今日は書こうと思います。

 

 

 

 

個人的にはこの作品、監督:桜井弘明デ・ジ・キャラット時代から桜井監督作品に親しんでいるにとってはいわゆる「俺得」作品になります。

期待通りこの作品、シュールレアリスム溢れるギャグと時々ハートフルという桜井監督らしい作品に仕上がっていました。特に、桜井監督が絵コンテを担当された第24話「ヒグマの学校なのです!」にこの傾向は顕著に表れています。このようなギャグとハートフル入り混じった演出はどのような意図をもって行われたのでしょうか?

 

少し話は飛びますが、昨今日常系アニメというのがよく取り沙汰されています。これらの作品はその名の通り「女の子の日常」を扱ったアニメなのですが、「本当にこれは『日常』なのか?むしろ視聴者の趣味趣向に合わせた虚構なのではないか?」という疑問も向けられています。筆者としてはこの質問はそもそもアニメというものの本質をわきまえていない見当違いも甚だしい質問だと思いますが、アニメ制作会社にとっても上述したような懸念は考慮されていることだと思います。

 

ここから話は飛躍しますが、私が思うに桜井監督としては、ジュエルペットというキャラ数の多さや毎回のグッズの使用といった女児向けアニメに見られる制約の中で、如何に自分の持ち味を見せるかという点において、「日常の打破」ということを考えられたのではないかと思います。

ジュエルペットにおける日常の打破とはつまり、ともすれば「虚構」と解釈されるような女子の生活を描く作品の中で、ギャグを織り交ぜながら1話に道徳的な成長を与えられる「女児向け且つ大人向け」な作品を提供することです。シリアス路線は時として大人にとっては理想論を語るだけの陳腐化した道徳を振りかざす作品になりがちです。かといってギャグに特化すれば、1年間という尺を持ちながらも何の道徳的教養を提供できない無益な作品に成り下がってしまいます。桜井監督はデ・ジ・キャラット時代から培ってきたギャグとハートフルの融合という形式を以って今作品において上に書いた命題を達成しようと奮闘されたのです。つまり、「ギャグを織り交ぜて1話1話の面白みを大切にしながらも道徳的メッセージを必ず残す」という試みです。

 

この試みは、ときに「ジュエルを集めるという行為」をマンネリ化させて視聴者の反感を買う原因の一つとなりました(TLで見る限り、中間で中だるみしたとの感想が多く見られた)。

 

ところが、ハッピネスにおいて特筆すべきなのは、このような試みと作品のメッセージが視聴者へと全て還元されたことです。具体的に言うと、1つは「笑い合ったらハッピネス」というメッセージが実は視聴者へと向けられていたということ、もう一つは「作品を形作っていたプロトコルが全て最終話において無効化されたこと」です。

ジュエルペットハッピネスで特質的だった点は、ギャグをメッセージまで昇華させたということです。ハッピネスでは、時々ジュエルペットが画面の正面を向いて、明らかに視聴者へ向けたメッセージを発信しているシーンが散見されました。最終話においては、それが「作品全体のメッセージ」として昇華していました。すなわち、作品中で繰り返し行われてきたギャグ(なめこ、落とし穴…)とそれにめげないちありという図は、その図を鑑賞した視聴者が「ハッピネス」を得るための手段だった(笑えばハッピネス)だったのです。これにより、笑い合ったらハッピネスというキーワードは、作品中におけるマジックワードとして働くと共に、作品を試聴する視聴者にとっても「ハッピネス」を与えるというメタ構造になっていたのです。

 

もう一方の作品を形作っていたプロトコルが無効化されたというのは、多くの女児向け作品に於ける「イコンを集める」という行為の合目的性という話です。

多くの女児向け作品では、何かのきっかけにより異世界(や今までいなかった世界)に迷い込んだ少女が目に見えるイコンを集める(多くは宝石)という方式が取られています。これは、ひとつはアイテムを集めるということが心地よい効果を与えるということと、もう一つは1話完結で「形になるもの」を残すことで視聴者に安心感を与えるためであると考えられます。

ジュエルペットハッピネスにおいて革新的だったのは、このような「典型的な」構造に対して、それを踏襲しながらも最終的にNOを突きつけたという点です。ハッピネスはそれまでの作品と比べて特に、「アイテム収集」という形式を踏襲した作品でしたが、最終話では、今まで集めてきた宝石そのものの無意味さが語られます。それによって、宝石は象徴であり大事なのはその宝石一つ一つについて個別の物語と絆を所有していることだと説かれます。これにより、今までの「宝石集め」という行為は無効化され「絆づくり」という本題が浮き彫りにされます。

 

それ以外にも、「ハッピネスはハッピネスを生む」という「ハッピネス」という感情の経済性(ゼロサムではない)ことが語られているなど、ハッピネスの最終回は「ハッピネス」にまつわる哲学的命題や、今までの構造をひっくり返すようなセリフがあったりと1年間かけて「ハッピネス」とは何かを模索したスタッフの労力が結晶化した作品だったのではないかと思います。

 

これらのことから総括すると、タイトルにある「ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?」という問いに対しては、私はギャグを踏襲しながらもそれを一歩踏み越えた道徳的なメッセージを伝えようと努力した作品、として盛大に讃えたいと答えます。

 

たまこラブストーリーについて

 2014年になったので,心機一転ブログを再開したい所存です.

 2013年一番私的に楽しめたアニメ,『たまこまーけっと』が4月に映画化とのことです.

 

『たまこラブストーリー』公式サイト

 

 事前情報では2期という噂もありましたが,完全新作の映画,しかもテーマはラブストーリーという,色々な意味で視聴者の予想を裏切る発表でした.

 

 『たまこまーけっと』に関してはTVアニメ本編についても事前情報が錯綜していたように記憶しています.Web上にアーカイブが残っているか分からないのですが,確かTVアニメが放映する前の情報ではたまこは「恋する女の子」という設定で,山田監督がとうとう男女の恋愛を扱うのだなぁと感慨深かったです.

 しかし,実際本編が始まるとたまこの恋愛を扱うというよりたまこの周辺で起こる商店街のドタバタや各人の恋愛模様にたまこが干渉するといった体で,たまこ自身の恋愛観が取り沙汰されることはありませんでした.もっと言うと,実は『たまこまーけっと』において「たまこ」という主人公が,主人公として主体的に役割を果たしたことは殆どないのですが,そちらについては場を改めて言及したいと思います.

 話を戻すと,『たまこまーけっと』はこれまで事前情報と実際の内容が異なっているケースがままあるということです.

 これは,『たまこまーけっと』TVアニメ放映当時の雑誌での取り上げられ方についても言えます.『CUT』や『New Type』などで『たまこまーけっと』が特集された当時(アニメ放映初期の1話〜4話)では,『たまこまーけっと』という作品を「理想の日常」として取り上げている向きが強く,実際13話通して南の島の王子やらチョイやらが出てきた話の展開を考えると「理想の日常」という解釈は齟齬が生じていると言えます(こちらについては異論があるとは思いますが...)

 そのため,今回の映画『たまこラブストーリー』においても,一般的に期待されうるようなラブストーリーとは変わった展開になることは想定されて当然であり,むしろ山田監督が「たまこ↔もち蔵」という安易なカップリングの話に終始するとは到底考えられるものではありません.

 

 このようなアニメ公開前の事前情報から実際のアニメ公開時の評判,落ちついた後の評価というものは情報が残りづらいので,注視して,この『たまこラブストーリー』という作品の情報を追っていきたいと思います.

 

 たまこまーけっとについてはまだまだ書きたいことがあるので,近いうちに書ければいいなと思いますが...とにかく,2014年よろしくお願いします.

 

 

LOVE展というコンテクストの中の初音ミク

六本木ヒルズ,森美術館10周年を記念して2013426日から開催されているLOVE展.その名前にある通り「愛」をテーマにした作品展である.掲載されているアーティストを見てみると,サルヴァトール・ダリ,オーギュスト・ロダンを始めとする美術の教科書にも載っているようなものから,やくしまるえつこオノ・ヨーコなど一見するとアートとは無縁のように思える人までいる.その中で一際目を引くのが「初音ミク」の文字である.

 「初音ミク」はクリプトン・フューチャー・メディア社が開発したソフトウェアの名称である.元々は作曲家向けに任意のメロディを歌わせることが出来る「ボーカロイド」という名目で売りだしたソフトだったが,インターネット上で一大ブームを巻き起こし遂には初音ミクのライブが海外で行われたり,CMのイメージキャラクターとして起用されたりするようになった.

 このように,「初音ミク」は従来インターネットで流行しているキャラクターとして認識される面が強かったが,本稿では「LOVE展」という展覧会で初音ミクがどのように扱われているか,また初音ミクと愛をアートとしてどのように表現しているかに着目して考察を行う.

 LOVE展は,以下の5つのセクションで構成されている.1.愛って何?2.恋愛,3.愛を失うとき,4.家族愛,5.広がる愛.初め「愛とは何か」という問いから始まり抽象的な作品郡が続く中,次第に「愛の喪失」や「性的マイノリティ」,「家族愛」など作者の体験に基づく作品が展示されていく.そして最後に「広がる愛」というテーマで草間彌生や津村耕佑,そして吉永マサユキと素朴に考えられる愛とは違ったコンセプトとしての愛をテーマとした作品が並べられている.その中で,初音ミクは「広がる愛」のテーマの最後に展示されている作品であり展覧会の最後を飾る作品でもある.

 第1セクションから順番に作品を眺めていくと,「愛」が様々な文脈で語られていることに気付かされる.あるときは,恋愛という直截的なテーマとして愛の喜びや別離の悲しみが語られ,あるときは性的差別との戦いや反戦運動,国家の政策への反発の文脈として語られる.そのような中で,展覧会の最後を飾る作品とは如何なるメッセージを持つのだろう.

 「初音ミク」に込められたメッセージとは,まさしくそのような政治的対立を超えて人々がつながれる可能性を示唆するものであった.「初音ミク」のブースではアマチュアが描いた様々な初音ミクのイラストが床に並べられており,正面と側面合わせて3方のスクリーンでは,アーティストが語るシンボルやハブといった「つながるためのツールとしての初音ミク」の映像と,初音ミクがライブを行い,それに人々が熱狂している様子を写した映像が流されていた.

 これらの作品群から伝わってくるのは,初音ミクが単なるソフトウェアやキャラクターではなく,「人々のつながり」を象徴するものであるということである.初音ミクというツールを利用して音楽として自らを表現し,それが動画やイラストといった更なる表現の連鎖を巻き起こしていること,そしてその表現の象徴としての初音ミクがライブ会場で人々の一体感を生み出していること,そのような初音ミクにまつわる人々の表現の調和を可視化したことが,様々な愛のかたちを提示した展覧会の最後を締めくくるのに相応しい作品に選ばれる要因となったのだと考えられる.

 昨今,イラストレーションの性的描写を巡って様々な規制案が議論されているが「初音ミク」についても同人誌等で18禁のものが頒布されているため全くの対象外ではない.しかしLOVE展という展覧会を通してみると,初音ミクというコンテンツの強さはむしろそのような清濁併せのむ環境から生まれてきたことに起因するのではないかと思われる.愛とセックスは切り離せないものであり,それを巡る男女間の対立,政治的な対立は常に議論の的となる.そして,それに付随する愛の表現も先鋭的なものとならざるを得ない.初音ミクを愛の象徴として考える場合,性的な消費対象としての側面も含めて人々がコミットできる象徴,あるいは物語であるということが,その複雑さを内包しているように思う.そしてそれこそが初音ミクの強さなのだと思う.

メモ:2000〜2012年私的面白かった作品リスト(TVアニメ編)

テストが終わったのでぼちぼちブログも更新しようかと思います.

今期のアニメでは今のところ『たまこまーけっと』が面白いです,前期からのひき続きでは相変わらず『銀河へキックオフ』が素晴らしい.

 

最近人と話をするときに,「あの作品面白かったけどなんだっけ?」と思い出せないことがあるので,忘却しないようメモにまとめることにしました.一応,私の好きな作品の傾向が反映されているので,ご興味があったら最後まで読んでくださると幸いです.

 

・2003年

R.O.D-THE TV- ☆☆

監督:舛成孝二 シリーズ構成:倉田英之 音楽:岩崎琢

形態・・・2012年,レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・美少女アクションとよく練られたストーリーに最後まで惹きつけられた.

 

カレイドスター ☆☆☆☆

監督:佐藤順一,平池芳正 シリーズ構成:吉田玲子 音楽:窪田ミナ

形態・・・2010年,レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・女の子が努力する姿って素晴らしいと思わせてくれる作品,見ると元気が出る.

 

デ・ジ・キャラットにょ 未評価

監督:桜井弘明 シリーズ構成:池田眞美子 音楽:増田俊郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・面白かったという記憶しかない,アニメ見るきっかけになった作品なので思い入れが深い.

 

プラネテス ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:中川幸太郎

形態・・・2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・タナベの強さに憧れます,雪野五月さんは敬愛する声優の1人です.

 

・2004年

舞−HIME ☆☆☆☆

監督:小原正和 シリーズ構成:吉野弘幸 音楽:梶浦由記

形態・・・1回目リアルタイム視聴.2回目2011年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・梶浦由記さんの音楽を知るきっかけになった作品.人がばったばったと死ぬのが当時印象的でした.因みにラストの展開には納得しなかった派です.

 

蒼穹のファフナー ☆☆☆☆☆

監督:羽原信義 シリーズ構成:山野辺一記冲方丁 音楽:佐橋俊彦

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・ロボットアニメの中では一番好きな話.今をときめく冲方丁さんが脚本を務められています.

 

2005年

ARIAシリーズ ☆☆☆☆

監督:佐藤順一 シリーズ構成:佐藤順一 音楽:Choro Club feat.Senoo

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・出来事の見方を変えるということを教わった作品.

 

かみちゅ! ☆☆☆☆

監督:舛成孝二 シリーズ構成:倉田英之 音楽:池頼広

形態・・・2011年レンタルDVDにて全話視聴

一言・・・見てて癒される作品.今ではあまりみない恋する女の子の可愛さをストレートに描いたところがポイント.

 

ガン×ソード ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:倉田英之 音楽:中川幸太郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・すげーエロかった記憶.

 

交響詩篇エウレカセブン ☆☆☆☆

監督:京田知己 シリーズ構成:佐藤大 音楽:佐藤直紀

形態・・・2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・純粋に少年が経験を通して成長する物語って描かれなくなりましたね.

 

舞ー乙HIME ☆☆☆☆

監督:小原正和 シリーズ構成:吉野弘幸 音楽:梶浦由記

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年レンタルDVDにて全話視聴.

一言・・・舞−HIMEと比べてより美少女の魅力が発揮される作品になったかと思います.ラストもこっちの方が好み.

 

・2006年

ウィッチブレイド ☆

監督:大橋誉志光 シリーズ構成:小林靖子 音楽:宅見将典

形態・・・Gyaoにてリアルタイム視聴.

一言・・・母親が戦闘で娘を守るという設定が当時新鮮だった記憶.

 

コードギアスシリーズ ☆☆

監督:谷口悟朗 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:中川幸太郎黒石ひとみ

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・1期のラストの放置っぷりはちょっとなぁ.シャーリー大好きです.

 

・2007年

がくえんゆーとぴあまなびストレート! ☆☆☆☆☆

監督:チームまなび部屋 ストーリーディレクター:金月龍之介 音楽:三澤康広

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年Blue-Ray BOXにて全話視聴

一言・・・青春を感じさせてくれる作品,一番好きなアニメの一つ.

 

シゴフミ ☆☆☆

監督:佐藤竜雄 シリーズ構成:大河内一楼 音楽:七瀬光

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・1話と2話の素晴らしさ.

 

かんなぎ ☆☆

監督:山本寛 シリーズ構成:倉田英之 音楽:神前暁

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・ナギ様とOPにしびれた.じっくり見るというよりながら見したいアニメ.

 

けいおん!シリーズ 1期☆☆ 2期☆☆☆ 

監督:山田尚子 シリーズ構成:吉田玲子 音楽:百石元(F.M.F)

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目2012年レンタルDVDにて視聴.

一言・・・1期より2期が好きです.

 

バンブーブレード ☆☆

監督:斎藤久 シリーズ構成:倉田英之 音楽:仙波清彦

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・カレイドスターに続き,広橋涼さんの魅力を引き出した一作.

 

・2008年

ef シリーズ ☆☆☆☆☆

監督:大沼心 シリーズ構成:高山カツヒコ 音楽:天門,柳英一郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・かけ続ける電話や紙飛行機など,記憶に残る演出が多いです.

 

・2009年

GA 芸術科アートデザインクラス ☆☆

監督:桜井弘明 シリーズ構成:待田堂子 音楽:安部純、武藤星児

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・2期やらないかなぁ.

 

そらのおとしものシリーズ 1期☆ 2期☆☆

監督:斎藤久 シリーズ構成:柿原優子 音楽:岩崎元是

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・兵器としての女性の葛藤と恋とか,ギャグの中にも結構重いテーマが見え隠れしていて面白い.

 

大正野球娘 ☆

監督,シリーズ構成:池端隆史 音楽:服部隆之

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・1クールでよくまとまった佳作という感じ.これもスポーツ少女.

 

夢色パティシエール ☆☆

監督:鈴木行 シリーズ構成:山田隆 音楽:大橋恵

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・悠木碧さんといえば個人的にこれ.

 

・2010年

ジュエルペットてぃんくる☆ ☆☆☆☆☆

監督:山本天志 シリーズ構成:島田満 音楽:浜口史郎

形態・・・1回目リアルタイム視聴,2回目以降DVDにて視聴

一言・・・生きててよかったと思える作品.

 

ハートキャッチプリキュア! ☆☆☆

プロデューサー:梅澤淳稔 シリーズ構成:山田隆 音楽:高梨康治

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・プリキュアシリーズではダントツ.

 

・2011年

花咲くいろは ☆

監督:安藤真裕 シリーズ構成:岡田麿里 音楽:浜口史郎

形態・・・リアルタイム視聴

一言・・・2011年ならこれかなぁ.

 

・2012年

人類は衰退しました ☆

監督:岸誠二 シリーズ構成:上江洲誠 音楽:大谷幸

形態・・・リアルタイム視聴.

一言・・・中原麻衣さんにしか出来ない演技,中原麻衣さんだからこそ出来た作品.

 

こうやって自分の中で概括していみると2007年に好きな作品が固まっていることがわかりました.2008年が少し不作でそこでアニメ離れを起こしてから,見るアニメの本数が減った感があります.

こうやって自分の好きな作品を並べると自分でも意識してなかった発見があり面白いです.好きな作品のスタッフが共通していることが多く(谷口悟朗監督,倉田英之さんなど),スタッフと嗜好の相性について考えさせられました.

 

 

 

 

断絶の象徴としての「天使」~映画けいおん!に見る梓の断絶~

メリークリスマス! 皆さんクリスマスイブはいかがでしたでしょうか?

私はけいおん!に癒された例年にない良いクリスマスだったと思います.

 

という訳で本日は映画けいおん!について思ったこと、特に「天使にふれたよ!」とあずにゃん問題についてつらつら述べてみようと思います.

 

けいおん!2期では梓視点で物語が進行していましたが,映画けいおん!では唯視点で物語が進行しています.これは,映画けいおん!が先輩メンバーから梓への継承を描いている物語だからです.

 

ここで注意したいのが,視点の変化があるにしろないにしろ,梓は徹底的に受動的な存在だということです.

 

梓が受動的な存在であることは私たち視聴者にとっては非常に心地よいものになっています。それは、梓=視聴者という構造のため、梓を中心とした擬似ハーレムが形成されているからです。

ところが、梓と唯達は学年が1つ離れているため、卒業後、必然的に梓は一人取り残されることになります。

 

そこで、今回の映画では、

「卒業する私達が梓にどのようなメッセージを残すか」

というテーマのもと物語が描かれています。

唯たちが梓に残したメッセージというのが、TV版でも流れた「天使にふれたよ!」であり、映画はテレビ中で明かされなかった歌詞の意味や、誕生秘話の物語でもあります。

 

さて、この「天使にふれたよ!」ですが、タイトルに含まれる「天使」とは「梓」を表しています。

ここでの天使の意味は、おそらく唯たち4人の軽音部メンバーに「幸福をもたらした存在」ということだと考えられます。

 

一見美しい比喩である「天使」ですが、この言葉は唯たちと梓との「断絶」を象徴的に表しているように思われます。

上述したように、梓=視聴者のため、唯たちと梓は同列の存在ではありません。同列の存在ではないということは、物語内において視聴者の感情移入の対象となるため特別な地位にあるということです。(たとえばドラえもんでのび太の扱いとジャイアンの扱いは同列ではありません。※といっても物語の視点の中心であるということ、と感情移入の対象であることは別に考えなければなりません。)

そのため、唯たちと梓は、登場人物の地位として「断絶」しているのです、

また、唯たちは卒業してしまうので、物語の流れとしても梓と唯たちは「断絶」しなければなりません。

 

このように、2重の意味で梓と唯たちは断絶しており、「天使」という言葉は、

「あなた(梓)は私たちにとって天使ではあるけれども、決して私たち(唯たち)とは相容れない存在」ということを象徴しているように思えます。

 

では、梓が唯たちと断絶することはマイナスなのでしょうか。

唯たちが卒業し梓が取り残されるということは、視聴者の現実への回帰を促す作用をもっています。何故なら唯たちがいない、擬似ハーレムの崩壊は、視聴者と唯たちが「断絶」していることを視聴者に認識させるからです。もちろん徹底的な断絶ではなく、「来年はあずにゃんの卒業旅行に行こう」という接続への希望を残してではありますが。

 

つまり、映画けいおん!で描きたかったのは「梓(=視聴者)と唯たちは卒業後(物語が終了後)もずっとつながっているよ。軽音部という環境はあなたにとって居心地のよい空間ですよ」ということではなく、「梓(=視聴者)と唯たちは徹底的に断絶しており、それは唯たちの卒業(物語の終了)によって嫌でも認識せざるを得ない。そして視聴者は逃避から脱却しそれぞれの現実世界へ戻らなければならない」ということではないかと考えられます。

 

あずにゃん問題が語られる背景も「梓が軽音部に一人でいること」よりも「梓(=視聴者)が取り残されること」のほうが実は重要なファクターなのではないでしょうか?