とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

『ROBOTICS;NOTES(ロボティクス・ノーツ)』感想

久しぶりの更新です.

 

5月に鹿児島に行ったときにコラボポスターを見て興味を持ち衝動買いしてしまった『ROBOTICS;NOTES(ロボティクス・ノーツ)』(PS3版).先日やっとクリアしました.

 

この作品をプレイして幾つか思った点を述べていこうと思います.既に他のサイトでよく書かれていること(ついポ返信でのフラグ立てが面倒など)は割愛

1.主役2人の性格が受け入れられない

2.ロボット作りの設定って必要だったのか?

3.終盤の展開が酷い

 

1.については掲示板とかでも散見されたのですが,とにかく主人公である「海翔(かいと)」君とヒロインの「あき穂」のペアが酷い,端的に言うとウザキャラです.

海翔君はストーリー最初から終盤まで大体ウザいです.最近流行りの設定?か分かりませんが,このキャラ基本やる気がありません,中二病みたいなやつです.それは置いておいて私がこのキャラをウザいと思う点は以下の二点に集約されます.

・みさ希との約束しか考えていない

・上の場合を除くと,ゲームの事しか考えていない

「みさ希との約束しか考えていない」,というのは幼い日に彼女と誓った「あき(あき穂)のこと,よろしくね」という約束を果たすことしか考えていないということです.別に子どもの頃の憧れ,且つ淡い恋心を抱いている相手との約束を守ろうとするのは構わないのですが,それ以外のこと,人物に対する無頓着さが際立っています.

 例えば,昴から安全性が考慮されていない「ガンつく1」のパイロットが淳和になりそうなときも,「俺はあき穂のこと以外はどうでもいい」と一蹴しています.

これだけでも相当ウザいのですが,じゃああき穂が困っているときどうやって助けるかと言うと.基本的にはパッションフルーツまんを食べて裏情報を仕入れるだけです.好意的に捉えるとあき穂の自主性に任せるといったところだと思うのですが,お前他にやりようはあるだろっ,と突っ込まずにはいられません.その癖して周囲から評価は「いつもあき穂を支えていて偉い」となっており意味不明です.

 もちろん個別ルートに入ってからはちょいちょいやる気を出す場面もあるのですが,基本評価が最底辺に落ちてしまってからは回復しようがありません.

「ゲームの事しか考えていない」というのも同様で,いちいち「ゲームをやる時間が云々」とモノローグで呟くのが気に障ります.一応綯さんルートに入ったとき「こんな自分キモい」みたいに自省している場面もあるのですが,全編に渡ってキモいのでさっさとそのくだらないゲーオタ根性は捨てて改心するべきだと思われます.

 

 この海翔君だけでも相当ストレス溜まるのですが,すかさず追い打ちを掛けてくるのがヒロインのあき穂です.非合理的・空気嫁・能なしと三拍子揃ったウザかわヒロインです.こいつが部長になったせいでロボット製作が難航しまくります.さっさと昴君に全権委任すればどれだけ捗るか...そのくせこの部長,「みんなに役割がある」とかキレイ事ぬかしやがります.ロボ作りに最も貢献しているのは昴君とフラウ坊の2強チートキャラで後はぶっちゃけ誰でもいいです.主人公とかロボ作りに全く参加しませんし.

 更にあき穂はあき穂で海翔に負ける劣らずの重度のシスコン...「お姉ちゃんに追いつくのがウチの夢」ってお前それでいいの?と思わずにいられません.しかも,その自分勝手な夢が昴の事故で頓挫しそうになったときも「海翔だけはついてきてくれる筈」と勝手に期待してそれが断られると逆ギレします.かなりヤバいです.可愛いところもありますが.

 

 ついでに,この2人ほどではありませんが淳和ちゃんもウザいです.話すのがオドオドしすぎててボイススキップ常用になります.

 

必然的に残りのキャラ,昴・フラウ・愛理が絡んでくるエピソードが面白くなってきます.7章フラウルートと8章愛理ルートは非常に秀逸,感動的な話でした.

まぁ,フラウの自殺はともかく(君島レポートの詳細を何故フラウに教えてあげないのよ),コールドスリープされていた愛理を警察に預けるとかUMISHO氏の予想の斜め下を行く行動には驚かされました.まぁフラウかわいいよフラウなので許す.

 

2.ロボット作りの設定って必要だったのか?

 この作品,序盤は「きっとこれから仲間が集って衝突や和解,試行錯誤の末ロボットが完成するんだろうな」と期待させてくれるのですが,その期待は脆くも崩れさります.なんとロボ作りの場面,殆どありません.主人公が君島レポート集めと各ヒロインとキャッキャウフフしてる間にロボットが完成しているのです.しかもせっかく作ったロボ2号機,活躍の場は昴君を潰すのと万博でSUMERAGIに折られるだけという.まったくの噛ませ犬です.ロボティクス・ノーツという名前に恥じないようもう少しロボット開発の話とか入れられなかったの...

 

3.終盤の展開が酷い

 もちろん分かっています,ロボットを作らせたのは最終決戦でみさ希とバトルするためだろうと.主人公が格ゲーオタという設定もそこに合わせてのことでしょう.それにしても仮に試作段階のコンセプトモデルとは言え一流企業が開発した軍事用ロボットに鈍足・ハリボテの1号機が勝てるとは思えません.もっと確実な方法あるでしょう...

 他にも鳥が銃を奪ったりとかこの作品,終盤のパワープレイで色々やらかしています.さわやか3組ばりの「教頭先生やクラスメイトとの和解」はまあ許そう.しかし,降って湧いたあき穂とのシーンはなんでしょう?全く意味不明です.

 それを乗り越えての最終決戦ですが,主人公がスローモーを連発するせいでテンポ悪いすぎです.(2回のスローモーでへばって寝込んだ奴と同一人物とは...いや,最早何も言うまい) 最終決戦の後の「ミサ姉は2度と起きないかも」みたいなモノローグもとってつけた感が酷いです.いや,お前ミズカさんのメッセージ伝えなくていいのかよ.

 

 とにかく,終盤の超展開のせいで今まで積み上げてきたものが総崩れになってしまいました.とても7章,8章をあれだけ綺麗にまとめたライターと同一人物が書いたとは思えません,時間なかったんでしょうか?

 

まとめると,主役キャラのウザさと中盤から終盤にかけての話の展開のまずさ,翻ってみれば構成力不足がこの作品を徹底的にダメにしてしまいました.カオスヘッドシュタインズ・ゲートと楽しんできた自分にはがっかりです.次回作に期待したいです.

 

 

P.S

余談ですが,この感想を書く前に何件かレビューを見たのですが酷いものが多すぎる.

「愛理が何を喋っているか分からない」,「愛理ルートは難しい話が多いから飛ばした」「終盤の君島レポートの説明が分からないから飛ばした」みたいなコメントが多々見られました.ちゃんとテキスト読んでもないのに「内容ムズくていつまらないから☆1」みたいな感想書くなら,お前もう書くの止めろよ...

 

 

 

 

 

何でもかんでも「日常系」とか使ってる奴なんなん?

 ブログの閲覧数稼ぎたさの余り釣りっぽいタイトルにしてしました。

 

 今回は、「日常系」というジャンルにまつわる1つの疑問について書きます。

 皆さん「日常系」というジャンル分けをどのように使っていますか?

 

 試しに「日常系」というワードでググってみると、空気系というwikipediaのエントリとNAVERまとめ、ついでニコニコ百科がヒットします。筆者の個人的見解ですが、こういうアニメ・漫画関係のキーワードはwikipediaよりニコニコ百科の方が強い気がします。というわけで、ニコニコ百科を眺めてみると、

 

 一言で説明すると「劇的なストーリー展開を極排除した、登場人物達が送るゆったりとした日常を淡々と描写するもの」。

 

なんて解説が出てきます。つまり日常系であるためには、ストーリー展開があってはならないということらしいです。因みにNAVERまとめの方で日常系作品を見てみると、

けいおん!』、『ひだまりスケッチ』、『みなみけ』、『らき☆すた』、『ゆるゆり』など、4コマ漫画原作の作品がほとんどです。

 

 となると、現在放送中のアニメだと、『ご注文はうさぎですか?』、『犬神さんと猫山さん』あたりが「日常系」としてジャンル分けされると思われます。

 

 今回私が抱いた疑問とは、「日常系」というジャンル分けは果たして有効か?ということです。

 アニメ批評では「日常系アニメの現在」とか「日常系アニメから見る〜」など日常系アニメをフックにした批評をしばしば見かけます。そういう批評の中には、例の東某や宇野某の議論を持ち出してきて、大きな物語の喪失から小さな物語への以降、そしてその延長線上としての「日常系」、日常讃歌、なんて話が出てきます。

 ここで行われている議論の前提は、「日常系」とはニコニコ百科にあるように「ストーリーが存在しない、登場人物たちの会話を楽しむもの」であるという認識です。

 私がここで言う「有効か?」という言葉の意味は、このような前提が有効かということです。即ち、いわゆる日常系と呼ばれている作品の中にも「登場人物たちの会話を楽しむもの」以外の作品が存在していたとしたら、その作品を「日常系」として論じるのは議論として正当でないばかりか、その作品を正しく理解しないことにも繋がります。

 

 そこで、今回は「日常系」というジャンルを再定義すると共に、幾つかの作品をサンプルとして「日常系」というジャンルが妥当か検証します。

 

 上述したように、日常系として挙げられている作品の原作はほぼ全て4コマ漫画です。その中でも、芳文社まんがタイムきららは4コマ漫画のアニメ化に力を入れており、代表作『けいおん!』を始めとして、『ゆゆ式』、『ご注文はうさぎですか?』など継続的にアニメ化を行っています。

 芳文社の沿革を調べてみると、芳文社が4コマ漫画へとシフトするきっかけについてこのように書かれています。

 

「週刊漫画 TIMES」に次ぐ新企画の開発が喫緊の課題となった1980(昭和55)年、「漫画パンチ」連載の植田まさしの4コマまんが「のんき君」の人気に着目した孝壽芳春は、ギャグ漫画を中心に据えた雑誌の開発を指示。1981(昭和56)年、「時代は笑いを主軸にした漫画誌を求めている」という読者ニーズを先取りした我が国初の家庭4コマまんが誌「まんがタイム」を創刊し4コマブームを巻き起こす。

 

 当時の芳文社は、ギャグ漫画に力を入れるため「まんがタイム」を創刊したようです。そしてその後進となるまんがタイムきらら創刊のきっかけについてはこのように述べています。

 

 パソコンや携帯電話の普及等により、従来の読書スタイルが大きく変貌し、出版業界全体の売上が減少を続ける中、購買力のあるいわゆる“オタク”層の取り込みを狙い、2003年に“萌え”系4コマ誌「まんがタイムきらら」を創刊。その後、姉妹誌「まんがタイムきららMAX」、「まんがタイムきららキャラット」、ストーリー主体の「まんがタイムきららフォワード」を発刊。萌え系4コマの世界で確乎たる地位を築く。

 

 この文章から、芳文社は「笑い」を中心とした4コマ漫画の創刊を経て、オタク層のニーズに対応するために美少女を主軸とした4コマ漫画を創刊したと言えます。ここから、芳文社まんがタイムきららは、美少女が中心人物となり「笑い」を志向した作品づくりを行っていると考えられます。

 

 まんがタイムきらら原作のアニメの多くがが「日常系」として扱われているなら、それらの作品も原作と同様の特徴を備えているはずです。即ち、現在日常系作品として扱われている作品の共通項として「笑い」を指向する傾向があるということです。この傾向があることの傍証として、先に引用したNAVERまとめがあります。先のNAVERまとめでは、日常系の面白さの1つとして「ギャグ度」という指標を挙げています。このことから、日常系アニメにおいてもギャグが重視していることが伺えます。芳文社以外の出版、一迅社などの作品も同様の傾向を備えていることは論証するまでもないでしょう。

 

 日常系アニメがギャグを指向する理由は、上に挙げた「4コマ漫画」の由来という側面以外にもあるように思えます。そしてそれは、「日常系」という呼称と密接に関わっています。

 人がアニメに限らずある作品に期待するものは様々です。ある作品には感動を、ある作品には勇気を、ある作品には恐怖を期待します。そのような「快」の中でも日常的に見られるのが「笑い」です。「笑い」はドラマや映画に限らず、バラエティ作品でも笑いは見られます。それに引き換え映画では、手の込んだ設定やストーリーから「感動」や「恐怖」といって快を引き出す作品が多いように思います。「笑い」の優れている点は、そのような手の込んだ設定が無くても引き出せるところです。逆に「感動」を引き出すためには、登場人物たちの「努力」や「成長」といったストーリーが必要となります。

 このように「笑い」は「努力」や「成長」なしに、言い換えれば、キャラクターの成長のない「繰り返し」の中でも快を引き出すことができるのです。繰り返しとは、即ち日常の謂いです。つまり、日常系アニメがギャグを指向する理由は、「笑い」という快は「繰り返し」の中でも引き出せるという点にもあるのです。

 

 これらの考察から、「日常系」を定義するための幾つかの特質が見えてきたように思います。1つは「笑い」があること、これは日常系アニメの原作が「4コマ漫画」であるという点から導かれた特質です。もう1つは美少女であること、これは日常系作品が「萌え」から出発したというまんがタイムきらら創刊の由来から導かれます。もう一つは「繰り返し」であること。これは、「笑い」という快を引き出すための装置から導かれた特質です。

 

 ここで、この2つの特質を以って「日常系」を再定義したいと思います。即ち「笑いと美少女と繰り返しを主軸とした」作品、です。

 

 この定義によっても、現存する多くの日常系作品を語ることができることが分かります。例えば『ご注文はうさぎですか?』。この作品はおよそ「日常」という名に似つかわしくない軍隊出身系のツインテールやしゃべるうさぎ、どこの文化圏かも怪しい美少女が出てきたりしますが、上の定義に照らし合わせれば立派な「日常系」です。他の『みなみけ』や『ゆるゆり』などもこの定義で語ることができます。

 

 そしてこの定義から導けるのは、決して「日常系」というアニメから「小さな物語」や「小さな世界における日常讃歌」なんている壮大な考察は論じることができないという事実です。「日常系アニメ」にあるのは、ただの美少女と笑いです。そこには、「現実の日常」への接続点は存在しえません。あるのは作品内世界における繰り返しです。たとえそこで日常への讃歌があったとしても、私たちの世界がその讃歌を歌い直すことは決してできないのです。

 

 

 ところで、この日常系の定義に当てはまらない作品が幾つかあります。それがアニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』です。これらの作品は多少の笑いはありますが、それよりも女の子同士のハートフルな交流や成長、そして「感動」が描かれます。先にも述べたように、「感動」を描くためには成長が必要です。この2つの作品は共通して3年生達が卒業します。それは、この2つの作品がギャグではなく「感動」を主軸として作品を生み出そうとしたことの必然です。これらの作品の登場人物は…唯は、あずにゃんは、ゆのっちは、成長します。小さな高校の小さな軽音部であったり、小さな学生寮であったりしても、そのまさしく「日常」とも言うべき日々を過ごすことによって彼女たちは成長するのです。私たちはそんな彼女たちを観て、癒され、「明日に向けて頑張ろう」という活力を得ます。

 

 面白いことに、このような「日常における成長を描いた作品」が「日常系」の定義から外れるということです。勿論、私が今回再定義した「日常系」は恣意的なものですが、アニメ版『けいおん!』が原作版『けいおん!』と異なるという議論は今まで散々議論されてきた1点を取ってみても、この2つの作品を異なるものとして認識する向きが強いということを裏付けています。

 

 私が考えるに、アニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』は『ご注文はうさぎですか?』などの作品と異なり、どちらかと言うと『ARIA』に近い構造ではないかと考えています。

 『ARIA』で語られるのは、日常における「美しさ」の再発見です。主人公である灯里はネオ・ヴェネツィアにおける生活の中で、様々な生き物の、自然の、人の美しさを再発見し、そして成長します。この「美しさの再発見」はそのまま現実にインポートすることが可能です。だから、ARIAは「日常系アニメ」よりも我々の世界に接続していると言えます。

 しかしながら、ARIAは「日常系アニメ」として扱われることがありません。それは、私が定義したように、日常系アニメは笑いと繰り返しを必要としており、決して成長を必要とするものではないからです。

 その意味で、アニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』は『ARIA』と同じ構造であると考えます。

 

 さて、ここまで「日常系」作品に対する疑問から発し、「日常系」の再定義、そして作品比較を行ってきました。ここでわかったのは、「日常系」が「笑いと美少女と繰り返し」を指向しており、決して「小さな物語」、「日常讃歌」といったメッセージ性を導き出せるものではないというものでした。そして、むしろ「日常系」として定義できない作品にこそ、現実と接続するメッセージ性―成長や友情、日常の美しさ―が織り込まれていることを確認しました。

 だから、私は今一度こう言います。「何でもかんでも「日常系」って使ってる奴なんなん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少女漫画と、女性目線・男性目線

最近では、少女漫画を男性が読むというのが当たり前になってきています。

 

少女漫画の中でヒットした作品はアニメ化し、更に話題性を増し、中には実写映画化しているものもあります。近年では、『ちはやふる』、『となりの怪物くん』、『好きっていいなよ。』などが話題になり、『好きっていいなよ。』については7月に実写映画化が予定されているという状況です。

 

そんな少女漫画ですが、どうやら男性と女性で観る視点が異なるようです。

というのも、先日ある女性と『君に届け』という作品の話をしていたとき、私が「主人公のさわ子が可愛くない」と言ったら、彼女には「女の子が可愛いかどうかは余り関係がない」と返されました。

彼女いわく、少女漫画の魅力は「主人公の女の子がどういう男の子と出会って、どういう展開になるか、ライバルの女の子がどうか」といった「主人公の女の子がどのようにちやほやされるか」や「どのような邪魔が入るか」などということでした。

これはつまり「主人公目線でどのように物語が展開されるか」に主眼を置いている見方であると言えます。

 

一方で、私たち男性はおそらく少女漫画を読むとき、「男性」には注目していないと思われます。その漫画にどんな男性が出てきてどんな展開になるかにはさして興味がないのです。

その代わり、男性がどこの注目しているかというと先ほど述べたように「女の子の可愛さ」ではないかと思うのです。

私は『となりの怪物くん』という作品が好きなのですが、この作品の魅力は多様な人物の群像劇と、それぞれの女性陣のコンプレックスと絡めた心の動きの描写だと思っています。

雫の「勉強だけが心の支え」という状態から、春や他の登場人物と出会って、ぶつかって、恋をして、その中での心の葛藤が上手く、そして可愛く描かれているのが魅力だと思います。(まぁ私の好きなキャラはあさ子ちゃんなのですが

つまり、私(≒男性)は少女漫画を読むときは、女性の描写、そして心の葛藤、成長を観ているのではないかと考えられます。

 

ここに、女性と男性での少女漫画の見方の分かれ目があるのではないでしょうか。

 

少女漫画に限らず、多くの読者層にヒットを飛ばす作品というのは、女性・男性どちらの目線でも楽しめるように上手くバランスが取られているように感じます。

女性一人に対して男性複数という典型的な作品では男性からの支持を集めるのは難しいです。逆に、男性一人に女性複数のハーレムというのも女性受けは悪いでしょう。

 

もっと言ってしまうと、「男性だけに受ければいい」というスタンスで作った男性向けの作品は、余り面白くありません。そういう作品は須く女性がカテゴライズされているからです。

「男性が描く女性」という紋切り型はよくありませんが、先日のエントリでも述べたように、男性向け作品の多くの女性キャラは既成のギャルゲ・ラノベ文化の煽りを受け極端に「記号化」されています。そのような記号化された「お約束の女性」のどこが可愛いのでしょうか。

少女漫画で描かれる女性では、このようなギャルゲ文化の記号化を避けた「人間らしい」女性が描かれています。

 

女性には「女性の人間らしさ」を描く力があると思います。

大ヒットを飛ばした『けいおん!』は山田尚子監督、堀口悠紀子さん、吉田玲子さんといった女性陣が作り上げました。また昨今様々な作品で引っ張りだこの岡田麿里さんも女性です。

 

けいおん!』で描かれたのは、「日常系」と呼称するに相応しい女の子の「日常」でした。「普通の高校の女の子が軽音部でお茶をする」というアニメ化するには全くふさわしくない設定を30分飽きさせないどころか、毎週観させるだけの強度を持ったキャラクターを作り上げたのは山田監督初めスタッフの面目躍如でした。

一方、岡田麿里さんの場合、「いかにもアニメ的な設定の女の子」が「普通の女の子みたいにまじめに葛藤する」というキメラテックな状況をキャラクターに背負わせることで、ドラマティックな展開を生み出しているように思います。

 

他にも、女性だからこそ描くことができる可愛い女の子という例は枚挙にいとまがないのではないかと思います。

 

思うに、「記号化した女性」に飽きた男性が求めているのは、女性が描く「活きた女性」なのではないでしょうか。

 

 

『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』とオタク論 

今日は映画『たまこラブストーリー』の舞台挨拶に行ってきました。

 

最近BS・CSに加入したこともあって映画を観る機会が増えたのですが、やはり映画館で観るのは格別です。

なんといっても全然作品への集中力が違う。おそらく

・能動的に予定を立てている

・お金を払って見ている

・劇場という閉鎖された環境に閉じ込められている

といった理由から、作品に没頭できるのではないかと思われます。

家だとどうしても携帯見たり、トイレ行ったりして集中して見ないですからね。

 

 

それはさておき表題の件。少し古いのですが『俺ガイル』の話と今期アニメの話を絡めて書こうと思います。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の基本情報は皆さんご存知でしょうし、今の時代知らない単語はWikipediaで全て調べられますので割愛。

 

私はこの作品が、当時、円盤の枚数的に非常に成功していたこと、TL上で相当数の人気を得ていること、そして2014年版の『このライトノベルがすごい!』でレコメンドされているなどの前提知識を得た上で録画していた作品を鑑賞しました。

 

前評判通り、作品は非常によく作られており人気が集まるのも納得の出来栄えだったと思います。キャラクターや構成しかり、この作品の良さを決めているファクターは様々あると思いますが、後述することにして、先日とある中学時代の友人と再会した折、この作品について話す機会がありました。

 

その友人は、高校時代からオタク道に入ったクチで、中学時代はガンダムエヴァといった作品が好きな普通の男子だったのですが、しばらく会わないうちに典型的なギャルゲー好きになっていました。

そんな彼とアニメの話をするといつもあまり反りが合わなくて、僕が好きな『たまこま』や『てぃんくる』、『まなびストレート!』と言った作品はあまり彼に刺さらず、彼は『ティアーズ・トゥ・ティアラ』や『真剣恋』などギャルゲー原作のアニメが好きでした。また、『はがない』や『SAO』も好きだったのでラノベにもある程度親和性がある人でした(どの程度好きだったかはわかりません)。

そんな彼だったので、当然 『俺ガイル』も好きだと思って話してみたら、「あれは駄作だ!」と一蹴されました。つまらなくて1話で切ったと言っていたのでそれっきり細かい話はできなかったのですが、よっぽど気に入らなかったのでしょう。

そのとき気づいたのですが、もしかしたら「ラノベ・ギャルゲ好き」というのは一枚岩ではないのではないのでは?と思いました。

 

私自身があまりアニメに強くないので、カテゴライズするとき「ギャルゲ・ラノベ枠」は一括りにして同じ層と捉えていたのですが、そうでもないようです。

 

そもそも、何で私が「ギャルゲ」と「ラノベ」が好きな層をいっしょくたにするようになったかと言うと、これらのカテゴリーには高度に記号化された「美少女キャラ」が多数登場し、キャラ描写とファンタジー世界を描く「浅い」作品が多いというイメージを持っているからでした。(この認識は今でも余り変わっていませんが、もちろん素晴らしい作品があることを否定するものではありません)

 

ところが、件の彼と話してみてそういう「ギャルゲ好き」の彼でも(人気があるとされる)ラノベに手が出ないものがあると知り、「ギャルゲ」然り「ラノベ」然りこれらの層をいっしょくたにするという認識は間違っているということに気付かされました。

 

そこで、今回は「ラノベ」層に焦点を当て、これらの作品群の嗜好の違いを分別することを試みたいと思います。

 

アニメやサブカルに限らず(もしかしたら文学も含め)、多くの娯楽作品には顧客ターゲットというものが存在します。ラノベの多くはティーン・エイジャー世代、週刊の少年誌は小学生~大学生の男(最近はそうでもない?)、少女誌は若い女性向け、一方モーニング、ビッグスピリッツなどはもっと高い年代をターゲットとしています。

ここで気をつけたいのが、ラノベと漫画という媒体の違いです。

漫画は文字に比べて読むのに時間がかからず、週刊や月刊で継続的に、その気になれば「立ち読み」という手段を以ってお金をかけずに読むことが可能です。

一方ラノベは、月刊誌等で連載を持つものもありますが、多くの作品は単行本を買って読むという形で消費されています。つまり、作品を消費するまでのハードルの高さが全く異なります。

このことから、ラノベの場合、漫画のように週刊・月刊誌を総当り的に読むというのが難しく、結果として読むラノベの数をキュレートする必要があります。

そういった背景から、ラノベの場合漫画と比較して、嗜好による選別とそういった消費者に対応した作品の多様化、そして収束化が進行していると考えられます。

作品外の要素ではこのような背景から「ラノベ」層の多様化が進んだと考えられます。

 

続いて、作品そのものの内容と読者の関係について考えてみたいと思います。

ここで、ラノベ作品を分析するために「こじらせ」という概念を定義します。

といっても「定義」というほどがっちりしたものではなく、私が抱いているイメージを言語化したものです。

「こじらせ」とは自虐と「ネタ化」を組み合わせたようなものです。自虐ネタに近い感覚でしょうか。自虐ネタの場合、例えば「自分が太っていること」や「顔がブサイク」、「しゃべり方がキモい」など自分の身体的、あるいは精神的な面で他人より劣っているとされている特徴を自分から言うことで笑いに変えます。ここで重要なのは、自虐ネタは必ず「自分自身の特徴」であるということです。

「こじらせ」では、この点が自虐ネタと異なります。「こじらせ」の場合、虐げる対象が「自分自身」ではなく「アニメ・ラノベ文化で共有されていること」となります。

「こじらせ」の例の一つとして「死亡フラグ」をあげます。「死亡フラグ」とはご存知の通り、アニメやラノベの中で、あるキャラクターが死ぬ直前に呟く言葉や場面をネタ化したものです。これが、なぜ「こじらせ」なのかと言うと、「死亡フラグ」が「死亡フラグ」としてネタ化する前のそれぞれの場面は、人の死が掛かっている非常に心を動かすものであったはずです。そのような「自分が心を動かされたもの」を「ネタ」にするのが非常に自虐的なのです。他にも「中二病」というのは、主に低年齢層向けのアニメの設定をネタにしたものです。

このように、「アニメ・ラノベ文化で共有されていること」を「ネタ化」してしまうのが「こじらせ」なのです。

 

「こじらせ」は「共有されていること」をネタにするので、あるネタをこじらせたネタを更にこじらせる…といったように「こじらせ具合」が変化していきます。「死亡フラグ」の場合は、「登場人物が死ぬ場面」から「死亡フラグ」、そして今度は「死亡フラグが存在する世界」というように、ネタ化、あるいはメタ化します。他にも「中二病」や「恋愛もののお約束」といったものについても同様の傾向が見られると思います。

ここまで読んでお気づきの方もいらっしゃる方も多いと思うのですが、先ほどの「死亡フラグ」を「こじらせた」作品は現在放送中の『がおられ』を指しています。

 

ここからが本稿の仮説なのですが、

この「こじらせ」という現象はアニメ・ラノベにおいて顕著に観察されるものであり、その原動力はオタク的な心情である。そして、ある作品が「どの程度こじらせているか」が作品の読者層に関与している。

 というものです。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は、「こじらせ」という観点から見ると「恋愛もののお約束」というネタが「こじらせ」られています。

ギャルゲーなどの恋愛ものの多くは、死亡フラグと同様に恋愛フラグというものや、恋愛ものにありがちな展開、キャラクターといったものを抱えています。

『俺ガイル』の面白いところは、そのような「ありがちな展開」をオタクの主人公という視点からもう一度捉え直すという「極めてオタク的≒こじらせている」点でオタクの心情描写が秀逸であることと、そのような「こじらせた状態」でもう一度しっかりラブコメをやっているという場面展開のコントロールの巧みさにあります。

 

さて、この『俺ガイル』という作品は上述の理由で面白い作品に仕上がっているのですが、冒頭の私の友人には受け入れられませんでした。それは、彼が「恋愛ネタ」のオリジンである「恋愛もの=ギャルゲー」を純粋に楽しんでおり、その視点からでは作品を楽しむことができなかったからではと考えます。

1サンプルから一般化するのは愚の骨頂ですが、同様に多く読者・視聴者は「作品のこじらせ具合」を基準の1つとして作品を楽しめるかどうかを判断しているのではないでしょうか。

 

傍証ではないですが、先日TL上でこのようなつぶやきを見ました。

http://twitter.com/METHIE34/status/461998239776927746

 

シドニアの騎士の場合、あまりに古典的な場面展開である故に、そういう作品でないのにも関わらず「死亡フラグ」と受け取られてしまうという、視聴者側が「こじらせて」しまっている例です。

 

 

 

ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?

4月になりました。

 

私も京都へ引っ越し気分一新大学院生です。

 

ところで4月といえば番組改編シーズン、多くの番組が惜しまれながら番組終了となりました。そんな作品の一つ、ジュエルペットハッピネスについて今日は書こうと思います。

 

 

 

 

個人的にはこの作品、監督:桜井弘明デ・ジ・キャラット時代から桜井監督作品に親しんでいるにとってはいわゆる「俺得」作品になります。

期待通りこの作品、シュールレアリスム溢れるギャグと時々ハートフルという桜井監督らしい作品に仕上がっていました。特に、桜井監督が絵コンテを担当された第24話「ヒグマの学校なのです!」にこの傾向は顕著に表れています。このようなギャグとハートフル入り混じった演出はどのような意図をもって行われたのでしょうか?

 

少し話は飛びますが、昨今日常系アニメというのがよく取り沙汰されています。これらの作品はその名の通り「女の子の日常」を扱ったアニメなのですが、「本当にこれは『日常』なのか?むしろ視聴者の趣味趣向に合わせた虚構なのではないか?」という疑問も向けられています。筆者としてはこの質問はそもそもアニメというものの本質をわきまえていない見当違いも甚だしい質問だと思いますが、アニメ制作会社にとっても上述したような懸念は考慮されていることだと思います。

 

ここから話は飛躍しますが、私が思うに桜井監督としては、ジュエルペットというキャラ数の多さや毎回のグッズの使用といった女児向けアニメに見られる制約の中で、如何に自分の持ち味を見せるかという点において、「日常の打破」ということを考えられたのではないかと思います。

ジュエルペットにおける日常の打破とはつまり、ともすれば「虚構」と解釈されるような女子の生活を描く作品の中で、ギャグを織り交ぜながら1話に道徳的な成長を与えられる「女児向け且つ大人向け」な作品を提供することです。シリアス路線は時として大人にとっては理想論を語るだけの陳腐化した道徳を振りかざす作品になりがちです。かといってギャグに特化すれば、1年間という尺を持ちながらも何の道徳的教養を提供できない無益な作品に成り下がってしまいます。桜井監督はデ・ジ・キャラット時代から培ってきたギャグとハートフルの融合という形式を以って今作品において上に書いた命題を達成しようと奮闘されたのです。つまり、「ギャグを織り交ぜて1話1話の面白みを大切にしながらも道徳的メッセージを必ず残す」という試みです。

 

この試みは、ときに「ジュエルを集めるという行為」をマンネリ化させて視聴者の反感を買う原因の一つとなりました(TLで見る限り、中間で中だるみしたとの感想が多く見られた)。

 

ところが、ハッピネスにおいて特筆すべきなのは、このような試みと作品のメッセージが視聴者へと全て還元されたことです。具体的に言うと、1つは「笑い合ったらハッピネス」というメッセージが実は視聴者へと向けられていたということ、もう一つは「作品を形作っていたプロトコルが全て最終話において無効化されたこと」です。

ジュエルペットハッピネスで特質的だった点は、ギャグをメッセージまで昇華させたということです。ハッピネスでは、時々ジュエルペットが画面の正面を向いて、明らかに視聴者へ向けたメッセージを発信しているシーンが散見されました。最終話においては、それが「作品全体のメッセージ」として昇華していました。すなわち、作品中で繰り返し行われてきたギャグ(なめこ、落とし穴…)とそれにめげないちありという図は、その図を鑑賞した視聴者が「ハッピネス」を得るための手段だった(笑えばハッピネス)だったのです。これにより、笑い合ったらハッピネスというキーワードは、作品中におけるマジックワードとして働くと共に、作品を試聴する視聴者にとっても「ハッピネス」を与えるというメタ構造になっていたのです。

 

もう一方の作品を形作っていたプロトコルが無効化されたというのは、多くの女児向け作品に於ける「イコンを集める」という行為の合目的性という話です。

多くの女児向け作品では、何かのきっかけにより異世界(や今までいなかった世界)に迷い込んだ少女が目に見えるイコンを集める(多くは宝石)という方式が取られています。これは、ひとつはアイテムを集めるということが心地よい効果を与えるということと、もう一つは1話完結で「形になるもの」を残すことで視聴者に安心感を与えるためであると考えられます。

ジュエルペットハッピネスにおいて革新的だったのは、このような「典型的な」構造に対して、それを踏襲しながらも最終的にNOを突きつけたという点です。ハッピネスはそれまでの作品と比べて特に、「アイテム収集」という形式を踏襲した作品でしたが、最終話では、今まで集めてきた宝石そのものの無意味さが語られます。それによって、宝石は象徴であり大事なのはその宝石一つ一つについて個別の物語と絆を所有していることだと説かれます。これにより、今までの「宝石集め」という行為は無効化され「絆づくり」という本題が浮き彫りにされます。

 

それ以外にも、「ハッピネスはハッピネスを生む」という「ハッピネス」という感情の経済性(ゼロサムではない)ことが語られているなど、ハッピネスの最終回は「ハッピネス」にまつわる哲学的命題や、今までの構造をひっくり返すようなセリフがあったりと1年間かけて「ハッピネス」とは何かを模索したスタッフの労力が結晶化した作品だったのではないかと思います。

 

これらのことから総括すると、タイトルにある「ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?」という問いに対しては、私はギャグを踏襲しながらもそれを一歩踏み越えた道徳的なメッセージを伝えようと努力した作品、として盛大に讃えたいと答えます。

 

たまこラブストーリーについて

 2014年になったので,心機一転ブログを再開したい所存です.

 2013年一番私的に楽しめたアニメ,『たまこまーけっと』が4月に映画化とのことです.

 

『たまこラブストーリー』公式サイト

 

 事前情報では2期という噂もありましたが,完全新作の映画,しかもテーマはラブストーリーという,色々な意味で視聴者の予想を裏切る発表でした.

 

 『たまこまーけっと』に関してはTVアニメ本編についても事前情報が錯綜していたように記憶しています.Web上にアーカイブが残っているか分からないのですが,確かTVアニメが放映する前の情報ではたまこは「恋する女の子」という設定で,山田監督がとうとう男女の恋愛を扱うのだなぁと感慨深かったです.

 しかし,実際本編が始まるとたまこの恋愛を扱うというよりたまこの周辺で起こる商店街のドタバタや各人の恋愛模様にたまこが干渉するといった体で,たまこ自身の恋愛観が取り沙汰されることはありませんでした.もっと言うと,実は『たまこまーけっと』において「たまこ」という主人公が,主人公として主体的に役割を果たしたことは殆どないのですが,そちらについては場を改めて言及したいと思います.

 話を戻すと,『たまこまーけっと』はこれまで事前情報と実際の内容が異なっているケースがままあるということです.

 これは,『たまこまーけっと』TVアニメ放映当時の雑誌での取り上げられ方についても言えます.『CUT』や『New Type』などで『たまこまーけっと』が特集された当時(アニメ放映初期の1話〜4話)では,『たまこまーけっと』という作品を「理想の日常」として取り上げている向きが強く,実際13話通して南の島の王子やらチョイやらが出てきた話の展開を考えると「理想の日常」という解釈は齟齬が生じていると言えます(こちらについては異論があるとは思いますが...)

 そのため,今回の映画『たまこラブストーリー』においても,一般的に期待されうるようなラブストーリーとは変わった展開になることは想定されて当然であり,むしろ山田監督が「たまこ↔もち蔵」という安易なカップリングの話に終始するとは到底考えられるものではありません.

 

 このようなアニメ公開前の事前情報から実際のアニメ公開時の評判,落ちついた後の評価というものは情報が残りづらいので,注視して,この『たまこラブストーリー』という作品の情報を追っていきたいと思います.

 

 たまこまーけっとについてはまだまだ書きたいことがあるので,近いうちに書ければいいなと思いますが...とにかく,2014年よろしくお願いします.

 

 

LOVE展というコンテクストの中の初音ミク

六本木ヒルズ,森美術館10周年を記念して2013426日から開催されているLOVE展.その名前にある通り「愛」をテーマにした作品展である.掲載されているアーティストを見てみると,サルヴァトール・ダリ,オーギュスト・ロダンを始めとする美術の教科書にも載っているようなものから,やくしまるえつこオノ・ヨーコなど一見するとアートとは無縁のように思える人までいる.その中で一際目を引くのが「初音ミク」の文字である.

 「初音ミク」はクリプトン・フューチャー・メディア社が開発したソフトウェアの名称である.元々は作曲家向けに任意のメロディを歌わせることが出来る「ボーカロイド」という名目で売りだしたソフトだったが,インターネット上で一大ブームを巻き起こし遂には初音ミクのライブが海外で行われたり,CMのイメージキャラクターとして起用されたりするようになった.

 このように,「初音ミク」は従来インターネットで流行しているキャラクターとして認識される面が強かったが,本稿では「LOVE展」という展覧会で初音ミクがどのように扱われているか,また初音ミクと愛をアートとしてどのように表現しているかに着目して考察を行う.

 LOVE展は,以下の5つのセクションで構成されている.1.愛って何?2.恋愛,3.愛を失うとき,4.家族愛,5.広がる愛.初め「愛とは何か」という問いから始まり抽象的な作品郡が続く中,次第に「愛の喪失」や「性的マイノリティ」,「家族愛」など作者の体験に基づく作品が展示されていく.そして最後に「広がる愛」というテーマで草間彌生や津村耕佑,そして吉永マサユキと素朴に考えられる愛とは違ったコンセプトとしての愛をテーマとした作品が並べられている.その中で,初音ミクは「広がる愛」のテーマの最後に展示されている作品であり展覧会の最後を飾る作品でもある.

 第1セクションから順番に作品を眺めていくと,「愛」が様々な文脈で語られていることに気付かされる.あるときは,恋愛という直截的なテーマとして愛の喜びや別離の悲しみが語られ,あるときは性的差別との戦いや反戦運動,国家の政策への反発の文脈として語られる.そのような中で,展覧会の最後を飾る作品とは如何なるメッセージを持つのだろう.

 「初音ミク」に込められたメッセージとは,まさしくそのような政治的対立を超えて人々がつながれる可能性を示唆するものであった.「初音ミク」のブースではアマチュアが描いた様々な初音ミクのイラストが床に並べられており,正面と側面合わせて3方のスクリーンでは,アーティストが語るシンボルやハブといった「つながるためのツールとしての初音ミク」の映像と,初音ミクがライブを行い,それに人々が熱狂している様子を写した映像が流されていた.

 これらの作品群から伝わってくるのは,初音ミクが単なるソフトウェアやキャラクターではなく,「人々のつながり」を象徴するものであるということである.初音ミクというツールを利用して音楽として自らを表現し,それが動画やイラストといった更なる表現の連鎖を巻き起こしていること,そしてその表現の象徴としての初音ミクがライブ会場で人々の一体感を生み出していること,そのような初音ミクにまつわる人々の表現の調和を可視化したことが,様々な愛のかたちを提示した展覧会の最後を締めくくるのに相応しい作品に選ばれる要因となったのだと考えられる.

 昨今,イラストレーションの性的描写を巡って様々な規制案が議論されているが「初音ミク」についても同人誌等で18禁のものが頒布されているため全くの対象外ではない.しかしLOVE展という展覧会を通してみると,初音ミクというコンテンツの強さはむしろそのような清濁併せのむ環境から生まれてきたことに起因するのではないかと思われる.愛とセックスは切り離せないものであり,それを巡る男女間の対立,政治的な対立は常に議論の的となる.そして,それに付随する愛の表現も先鋭的なものとならざるを得ない.初音ミクを愛の象徴として考える場合,性的な消費対象としての側面も含めて人々がコミットできる象徴,あるいは物語であるということが,その複雑さを内包しているように思う.そしてそれこそが初音ミクの強さなのだと思う.