とりあえずかけそば一丁

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あいぽんにとって歌とは何なのだろうか?

毎日更新するって息巻いていたのはいつの日のことか…
ということでお久しぶりです。昔酔った勢いで書いたものの、今までHDDの底に眠っていたのでうpしてみるゲーム、ということで表題について以前書いたものをあげてみます。



彼女はDROPS時代から歌手(アイドル)活動に従事しており,当時から歌は下手だった。今ではネットで情報をいくらでも検索できるからこのような補足は無意味に等しい行為であるが,DROPSとは国府田・神田・野中・金田・白石からなるユニット,当時では革新的かつ人気を博した声優ユニットであったとフォローしておく。因みにDROPSAice5→sphereの流れは覚えておいて損はないだろう。

さて,面子をみるとわかるとおりだが,金田と野中は5人の中で完全に(歌においては)お荷物であった。特に金田はソロパートが全くないという扱い であった。野中も当時の青二の戦略に乗せられた形で,ルックス勝負という感が強かった。そんな彼女だが,歌が下手という事をものともせず今日まで歌手活動に勤しんできたのである。DROPSファンの誰もが野中がソロ活動するとは考えていなかっただろう。歌唱力・年代的にも白石の方が妥当であったはずである。
しかし,そんな彼女ラジオタイアップから始まり,アルバムを出すことになり,ついにはベストを出すまでに至った。


彼女の歌を「あいぽん がベストとか(笑)」,「あごぽん乙」と一蹴するのは簡単だが,「歌が下手」という事を何よりも意識していたのは野中藍本人に違いない。歌にコンプレック スすら抱いていた彼女が歌手活動を行う事には想像を絶する苦労が伴ったずだ。

彼女を支えたのは間違いなく私たちファン一人一人であり,私たちが「野中藍の歌を聴きたい」という一念があったからこそ彼女は存在できるのである。彼女と私たちの間には相互扶助的な関係が存在しており,それが「野中藍」というキャラクターを形成する上で大きな役割をなした。「野中藍」というキャラクターは,ファンの「手塩にかけて育てた」という意識と,あいぽんの 「ファンに恩返しをしたい」という感情の上に成り立っており,その結果生まれた他のアイドル声優に比べより干渉できているという意識が「野中藍」に魅力を持たせているのである。

つまり,「野中藍」にとって「歌」というファクターは,偶像崇拝にありがちな彼女からファンを排斥するという動きと対照をなす形で,むしろファンと彼女の距離を縮めるという働きがあったのだと推察できる。
また,水樹や平野と比べ「歌が下手」という要素自体が差異化を生みだし,「価値観の多様化」によって生まれたニーズに対応できたという事も言える。
青二の戦略にうまく乗っかれた彼女が (彼女の先輩である神田がもろくも失敗したことは考慮しておくべき)ヴィジュアルを前面に出すのではなく,あえて「歌」を前面に出して売り出したことの意義は大きい。
単純に,彼女の知名度・ルックスで売り上げが期待できたとも考えられるが,それよりもむしろ「彼女の声質は特徴があり一瞬で聴き分けられるところに魅力がある」と話し,CDを売り込むことを重視したプロデューサーの意思を尊重したい。


さて,ここでもう一度「あいぽんにとって歌とはなんだろうか」という命題に立ち戻ってみたい。
彼女にとって歌とはあくまでも「ファンへの恩返し」である。この結論に異議をはさみこむ余地はない。ただそれが,ファンの転移を引き起こし,結果として商業的にも成功する事になったのにすぎないのである。


今読んでみるとなんか偉そうな事書いているなー位にしか思わないのですが、当時の私は(今でも)かなりのあいぽんファンでしたのでまあお許し頂きたいのであります。