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とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

『宇宙をかける少女』論

昨日の論考では、「宇宙をかける少女」について物語の文脈に沿って考察しました。

本日は、作品『宇宙をかける少女』の特殊性に焦点を当てて論じてみたいと思います。

宇宙をかける少女』で特徴的なのは、主人公である秋葉が「成長しない」ということであると考えます。所謂「ビルディングスロマン」と呼ばれる作品群、特に少年漫画に多いですが、これらの作品は、「作品を通して主人公が成長すること」に眼目をおいています。つまり、主人公の成長を通して「努力、仲間」といったものの大切さを伝えることが主眼となっています。これは、少年漫画に限らず、多くの作品に共通して見られます。

ところが、『宇宙をかける少女』において、「主人公の成長」を取り上げるシーンはほぼ皆無と言えるでしょう。唯一と言えるのが、レオパルドを励ますシーンと、最終話近辺で秋葉がレオパルドを討つことを決意するシーンです。しかし、これらのシーンにおいても、秋葉の明確な成長は語られておらず、あやふやなまま物語は進行します。レオパルドを討つことを決意するシーンでは、秋葉が決意する場面が象徴的に描かれていますが、特に秋葉に内面的な変化をきたす描写はありません。(「気づき」はありますが)

このように、主人公の成長を描かない理由としては、「秋葉が運命的に『鍵』としての役割を担っている」ということが挙げられます。

ビルディングスロマンでは、主人公の特異性というのは表立って描写されることはありません。(もちろん、主人公がある種の「異能」の持ち主であることは隠しませんが)それは、ひとえに「読者が感情移入出来る主人公であるため」ということに尽きるでしょう。主人公は、天才的な才をもちつつも、読者に寄り添った存在であらなければならないのです。
本論においては脱線となりますが、それと同時に「思いの強さ」というのも少年漫画(あるいは少女漫画)においては重要なファクターとなります。

秋葉はそれに対して、物語序盤から「運命」が明示されている存在であります。この作品の主眼は、そのように「運命づけられた運命」に対してどう立ち向かうかにあります。

このような状況にあったとき、よく取られる行動としては、「その運命から逃げる」ということです。そして次にあるのが「運命に抗う」ということであります。

さて、では秋葉はどのような存在なのか?

昨日も述べましたが、秋葉は主人公のキャラクターとしては極めてニュートラルと言えます。何がニュートラルかというと、「家柄としては立派な財団」であるが、「主人公自身には特殊な力はない(自覚していない)」ということです。このように、属性(家柄などの要素の集合)としては強力だが、個人で見ると弱いというのは、比較的感情移入しやすいキャラクターと言えるでしょう。また、劣等感を抱えているとうのも感情移入しやすいポイントです。(視聴者の年齢層を考えるとコンプレックスを抱えているのがむしろ普通であるから)

特筆すべきなのはむしろここからで、上述したように一般的なドラマでは「運命的から逃げる」「運命に抗う」といった物語が展開させるのですが、『宇宙をかける少女』にはそれがない。むしろ、描かれるのは「運命に対して無自覚な自己」なのです。

秋葉は25話まで、「宇宙をかける少女」とは何か?そして己とは何か?を問い続けます。それに対する秋葉の望む解答は得られませんが、秋葉は結局レオパルドを討つことを決意します。しかし、この決意も、秋葉が25話の物語の経過の上に成り立った決意とは言いがたい部分があります。秋葉は妹子の利他的な精神に気づき、それに感化されるという描写なのですが、それが果たして25話間の旅に基づくものかと言うとそうとは言えないでしょう。

つまり、秋葉は「なんとなく」自己の道を追いつづけ、「なんとなく」自己の役割を認識し、「なんとなく」世界を救う戦いに出るという、ビルディングスロマンとはかけ離れた存在であると言えます。

この「なんとなく」は秋葉だけでなく、作品全体に通底している流れと言えます。例えば、神楽が偶然寝返り、ナミに説教しに行ったように。

結論すると、秋葉は「宇宙をかける少女」という運命を受け入れる存在です。但し「なんとなく」。それは「自己実現」という主体的な目的から目を逸らすことになります。しかし、運命からは抗えない。皮肉的に言うと、社会的圧力によって運命を受け入れることを強いられつとも言えるでしょう(これの典型が風音、その逆がナミ)

宇宙をかける少女』は結局、「運命(全能性)」希求しながら「運命」に無自覚であること、それが「自由意志」全うすることではないかというテーゼを提示しているのではないでしょうか。形而上学としての「決定論」と「自由意志」の対立ではなく、事実問題として「運命」に巻き込まれたとき人はどう生きるべきか。その答えとしての「運命への無自覚」…






人は時として、社会からの圧力や責任感に飲まれて、自分を見失うこtがあります。そんなとき、自己をどう再発見するか?『宇宙をかける少女』とは文字通り「宇宙(想定されている世界としての宇宙)を自由に駆ける少女」ではないでしょうか?