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とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?

4月になりました。

 

私も京都へ引っ越し気分一新大学院生です。

 

ところで4月といえば番組改編シーズン、多くの番組が惜しまれながら番組終了となりました。そんな作品の一つ、ジュエルペットハッピネスについて今日は書こうと思います。

 

 

 

 

個人的にはこの作品、監督:桜井弘明デ・ジ・キャラット時代から桜井監督作品に親しんでいるにとってはいわゆる「俺得」作品になります。

期待通りこの作品、シュールレアリスム溢れるギャグと時々ハートフルという桜井監督らしい作品に仕上がっていました。特に、桜井監督が絵コンテを担当された第24話「ヒグマの学校なのです!」にこの傾向は顕著に表れています。このようなギャグとハートフル入り混じった演出はどのような意図をもって行われたのでしょうか?

 

少し話は飛びますが、昨今日常系アニメというのがよく取り沙汰されています。これらの作品はその名の通り「女の子の日常」を扱ったアニメなのですが、「本当にこれは『日常』なのか?むしろ視聴者の趣味趣向に合わせた虚構なのではないか?」という疑問も向けられています。筆者としてはこの質問はそもそもアニメというものの本質をわきまえていない見当違いも甚だしい質問だと思いますが、アニメ制作会社にとっても上述したような懸念は考慮されていることだと思います。

 

ここから話は飛躍しますが、私が思うに桜井監督としては、ジュエルペットというキャラ数の多さや毎回のグッズの使用といった女児向けアニメに見られる制約の中で、如何に自分の持ち味を見せるかという点において、「日常の打破」ということを考えられたのではないかと思います。

ジュエルペットにおける日常の打破とはつまり、ともすれば「虚構」と解釈されるような女子の生活を描く作品の中で、ギャグを織り交ぜながら1話に道徳的な成長を与えられる「女児向け且つ大人向け」な作品を提供することです。シリアス路線は時として大人にとっては理想論を語るだけの陳腐化した道徳を振りかざす作品になりがちです。かといってギャグに特化すれば、1年間という尺を持ちながらも何の道徳的教養を提供できない無益な作品に成り下がってしまいます。桜井監督はデ・ジ・キャラット時代から培ってきたギャグとハートフルの融合という形式を以って今作品において上に書いた命題を達成しようと奮闘されたのです。つまり、「ギャグを織り交ぜて1話1話の面白みを大切にしながらも道徳的メッセージを必ず残す」という試みです。

 

この試みは、ときに「ジュエルを集めるという行為」をマンネリ化させて視聴者の反感を買う原因の一つとなりました(TLで見る限り、中間で中だるみしたとの感想が多く見られた)。

 

ところが、ハッピネスにおいて特筆すべきなのは、このような試みと作品のメッセージが視聴者へと全て還元されたことです。具体的に言うと、1つは「笑い合ったらハッピネス」というメッセージが実は視聴者へと向けられていたということ、もう一つは「作品を形作っていたプロトコルが全て最終話において無効化されたこと」です。

ジュエルペットハッピネスで特質的だった点は、ギャグをメッセージまで昇華させたということです。ハッピネスでは、時々ジュエルペットが画面の正面を向いて、明らかに視聴者へ向けたメッセージを発信しているシーンが散見されました。最終話においては、それが「作品全体のメッセージ」として昇華していました。すなわち、作品中で繰り返し行われてきたギャグ(なめこ、落とし穴…)とそれにめげないちありという図は、その図を鑑賞した視聴者が「ハッピネス」を得るための手段だった(笑えばハッピネス)だったのです。これにより、笑い合ったらハッピネスというキーワードは、作品中におけるマジックワードとして働くと共に、作品を試聴する視聴者にとっても「ハッピネス」を与えるというメタ構造になっていたのです。

 

もう一方の作品を形作っていたプロトコルが無効化されたというのは、多くの女児向け作品に於ける「イコンを集める」という行為の合目的性という話です。

多くの女児向け作品では、何かのきっかけにより異世界(や今までいなかった世界)に迷い込んだ少女が目に見えるイコンを集める(多くは宝石)という方式が取られています。これは、ひとつはアイテムを集めるということが心地よい効果を与えるということと、もう一つは1話完結で「形になるもの」を残すことで視聴者に安心感を与えるためであると考えられます。

ジュエルペットハッピネスにおいて革新的だったのは、このような「典型的な」構造に対して、それを踏襲しながらも最終的にNOを突きつけたという点です。ハッピネスはそれまでの作品と比べて特に、「アイテム収集」という形式を踏襲した作品でしたが、最終話では、今まで集めてきた宝石そのものの無意味さが語られます。それによって、宝石は象徴であり大事なのはその宝石一つ一つについて個別の物語と絆を所有していることだと説かれます。これにより、今までの「宝石集め」という行為は無効化され「絆づくり」という本題が浮き彫りにされます。

 

それ以外にも、「ハッピネスはハッピネスを生む」という「ハッピネス」という感情の経済性(ゼロサムではない)ことが語られているなど、ハッピネスの最終回は「ハッピネス」にまつわる哲学的命題や、今までの構造をひっくり返すようなセリフがあったりと1年間かけて「ハッピネス」とは何かを模索したスタッフの労力が結晶化した作品だったのではないかと思います。

 

これらのことから総括すると、タイトルにある「ジュエルペットハッピネスはギャグ作品か?」という問いに対しては、私はギャグを踏襲しながらもそれを一歩踏み越えた道徳的なメッセージを伝えようと努力した作品、として盛大に讃えたいと答えます。