とりあえずかけそば一丁

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ポーの一族

ポーの一族のテーマの一つは「生と死」である.『ポーの一族』の第1話でエドガーはこう述べている.「…なぜ生きているのかって… それがわかれば! 創るものもなく生みだすものもなく うつるつぎの世代にたくす遺産もなく 長いときをなぜこうして生きているのか …すくなくともぼくは ああすくなくともぼくは…」  エドガーを始めとする「ポーの一族」,別名バンパネラは老いることなく永遠の刻を過ごす.エドガーは「なぜ生きてそこにいるのだこの悪魔!」  という罵倒に,上のようにペシミスティックな思索で応えるのである.このように,永遠の刻を生きるバンパネラが,人が生きる社会をどのように生き,干渉するのかが今作の大きなテーマである.
2人のバンパネラであるエドガーとアランは,旅を重ね,生を送って行く中で様々な人間と出会う.ある時は,山賊に家族を殺され,一人残された娘の世話をしたり,ある時は秘密を知られたクラスメートをバンパネラに変えてしまったりする.またある時は女性に対して恋心を抱く…そのような経験が果たして何をもたらすのか.
最終話,アランを失ったエドガーは炎に包まれた家の中で,昔を回想しながら次のように思う.「…帰ろう帰ろう 遠い過去へ… もう明日へは行かない 昔昔の幸せ 帰ろう帰ろう時を飛んで みんなみんな …アハハ …アハハ みんなみんな… …あはは」  このように,エドガーは最期に自らの時を進めることを放棄する.(但し,その後エドガーが本当に死んだかどうかは定かではない)
上のエドガーの思索を踏まえると,先ほどの「エドガーの経験が何をもたらすか」という問いの答えは,少なくともエドガーに対しては何ももたらさなかったと言える.しかし,果たして本当にそうだろうか.
 エドガーとアランが旅を続けてきたのは,単に生きるためだけに生きるのではなく,生きることの喜び,また生き続けることの目的があったのではないだろうか.
生きることの喜びという点では,例えば「リデル森の中」で,エドガーとアランがリデルという女の子を育てる話で見出される.この話は上述したように,家族を失った娘を2人のバンパネラが育てるのであるが,ここで彼らは明らかに「人と関わることに生の喜びを見出している」のである.
これは,彼らがいくらバンパネラになったとしても人の心を持ち,人として生きたいという欲求を備えているということである.
もう一点の生き続けることの目的という点では,「メリーベルの存在」が挙げられる.メリーベルは第一話で殺されてしまうのであるが,エドガーはアランと二人になった後も彼女の事を考え続ける.そして,様々な町,様々な人々との出会いの中に彼女の面影,彼女との思い出を見出そうとする.
このように,エドガーとアラン,バンパネラという死を忘れた存在であっても,人と関わることにより人のように生きることが可能ではないのだろうか.
次に,バンパネラと関わりをもった人々の事について考える.これらの人々についてはそのケースに応じて明暗が分かれている.例えば,上述したリデルの場合,二人と別れた後もきちんと育てられ,2人の記憶を湛えながら生を全うする.逆に,「ホームズの帽子」で登場するジョン・オービンはバンパネラの秘密に魅せられてしまう.また,「小鳥の巣」で現れるマチアスは二人の正体を知った故に結局死んでしまう.
バンパネラと関わることが,人にとって悪夢となるか,それとも福音となるかは分からないが,その人の人生を変えてしまうことは確かである.だが,それはバンパネラに限ることではない.
我々はこの社会を生きている中で,様々な人と出会い,成長し,恋をして大人になる.それは,バンパネラであるアランがエディスに恋をすることや,その姉であるシャーロッテを助けられず後悔することと全く等価な経験ではないだろうか.また,長い刻を生きるエドガーがメリーベルの面影を追い求めることや,アランをバンパネラに変えてしまうことも…
我々にとって大事なのは,何と出会い,どう関わるか,すなわち「どれだけ生きるか」よりも「どう生きるか」ではないだろうか.『ポーの一族』にはバンパネラという「永遠の生を生きる存在」を描くことで,逆説的に「今を生きることの有意味性」を描き出そうとしているように感じられる.