とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

マンガの実写化はクソとかほざく野蛮人の目に映画『バクマン。』を流し込みたい

本日2度目の更新となります.本日目黒シネマにて映画『バクマン。』を観てきたので忘れないうちに感想を書こうと思います.

 

 

東京はなんといっても名画座が多いですね.

miwaku-meigaza.com

名画座の魅力はなんといっても値段の安さです.シネコンで最新作を観ようとすると大人1800円,学生でも1500円はとられるので貧乏学生としてはなかなか敷居が高いです.ところが名画座の場合,最新作は上映されないものの,独自のプログラムで組まれた旧作や准新作が2本セットで1200円で見れてしまう,半額以下というなんと良心価格!しかも完全入れ替え制ではないので面白かったら2回,3回と居座って見続けることができてしまいます.

 

ということで前々から東京に帰省したら名画座へ行こうと心に決めていたのですが,本日は目黒駅から徒歩5分の目黒シネマに行ってまいりました.

www.okura-movie.co.jp

目黒シネマでは週替りで2本の作品を上映しているのですが,先週今週と上映されていた作品がこちら,

bakuman-movie.com

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でした.同時上映されている『トキワ荘の青春』は本作『バクマン。』の監督である大根仁さんが「セットで観たい作品」として自らチョイスされたということで,『トキワ荘の青春』を意識したセリフや美術があったようです(自分はバクマン。トキワ荘の順で観たのではっきりとはわかりませんでした)

 

更にバクマン。の公開に合わせて待合室が完全に集英社仕様になっていました!

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漫画家さんが実際に使用されているペンや大根監督へのメッセージノートなんかもアリ

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気合入ってる!!!

そんなこんなで見る前から結構テンション高かったのですが,実際に観てみたら作品自体も非常に面白かったです.

 

まずストーリー.漫画家の叔父さんを持ち絵が抜群に上手いサイコー(佐藤健)と絵は天才的に下手だけど文才があるシュージン(神木隆之介)という2人の高校生がタッグを組み,同じく天才高校生漫画家であるエイジ(染谷将太)を「友情・努力・勝利」によって打ち破る,という極めて王道の物語です.原作未読につき比較はできないのですが,聞きかじったところでは登場人物の数やエイジの扱いが異なるようです.おそらく2時間という尺と,実写化で無理のない展開,というのを考えた上での変更だと思うのですが,これが(おそらく原作をそのままダイジェスト化するよりも)功を奏しており結果として2時間のドラマの組み立てが非常によく出来ていたと思います.

 

話のテンポが良く緩急の付け方も見事だと思います.2時間以上の映画は中盤で中だるみしてしまうことが多いのですが,本作ではそれを解決するために「手塚賞への応募」,「連載決定まで」そして「連載開始後からエイジに勝つまで」と山を3つ用意し,それぞれを繋ぐためにヒロインとのやりとり,叔父さん(宮藤官九郎)の思い出シーン,ライバルであり仲間でもある他の漫画家たち,そしてマンガ編集者の視点を持ち込むことで話の繋がりをスムースにし「同じ山場構造の繰り返し」にならないよう工夫されていると感じました.

 

また,王道ストーリーを支える人物の作り込み,人物を演じる役者陣の演技も素晴らしかったです.

まず主人公の2人組,神木隆之介は『桐島部活やめるってよ』に続き「オタク系高校生」の役ですが引き続きドハマリしてました.彼がマンガの情熱を語るシーンやネームを考えるシーンはオタクっぽさがよくでていて非常に良かったです.実際相当のマンガ好きらしいとかで,マンガのネタを考えるシーンはアドリブでお芝居していたみたいです.また,神木君は『サマーウォーズ』で既にその才覚を表していたのですが声質が滑らかで綺麗なんですよね.だから彼がナレーションするシーンや早口でまくし立てるシーン,全てが聴いていて心地よかったです.

佐藤健は表情がホントいいですね.ヒロインと両想いと分かったときの変顔から,準入選で明らかに満足していない顔,徹夜で死にそうなときの雰囲気とか彼の顔によってサイコーのキャラがかなり深められたのではと思います.特に,佐藤健は「目」が素晴らしいですね.編集長とエイジを睨みつけるときの「目」は怒りや闘志,熱意といったものがないまぜになった素晴らしい意志のある眼差しでした.

一方彼らに負けず劣らずキャラ立ちしているエイジを演じた染谷将太は複雑というか玄妙というか,「コイツ何考えているのかわかんない感」を表現するのが非常に上手ですよね.佐藤健の「目」が一本筋が通った中にある複雑さだとすると,染谷将太の「目」は一言で何か言い表すのができない融け合った複雑さなんですよね.染谷将太の演技を観るのは『寄生獣』に続き2作目なのですが,『寄生獣』の主人公も元々もっていた精神が寄生獣との共生によって変質していく様子を上手く演じられてましたし,非常に素晴らしい役者さんだと思います.

叔父さん役の宮藤官九郎もいいですね.「叔父さんはなんでマンガ描いてるの?」に対する「うんこ」の雰囲気とかマンガを描いてるときの顔とか,マンガ家としての説得力を感じました.

このように素晴らしい役者陣ですが,特に個人的に好きだったのが主人公たちの担当編集である服部さん役の山田孝之です.実はこの服部さん,本作においては主人公2人に次いで最も重要なキャラクターなんですよね.初登場では徹夜作業明けで髪ボサボサ,「高校生の持ち込みかよ」と機嫌悪そうで第一印象最悪,主人公たちと顔を合わせても舐めた雰囲気なんですが,しかし実際に原稿を「拝見して」的確に評価を下すところはまさに「編集者」然としており高校生に対する「大人」である.そんな彼が主人公たちを陰に陽に支え連載1位まで導いていく姿はマンガにおける裏の作者である編集者をこの映画が大切に描こうとしているのだと感じさせてくれます.

山田孝之さんは本作では髪が長くてメガネも掛けているのであまり表情は明瞭に見えないのですが,その分手の動きや発声の仕方で上手に表現されていたと思います.

 

ストーリーとそれを支えるキャラ,役者陣の演技について書いてきましたが,本作の最大の魅力は「マンガすげー」と思わせる美術と演出です.

まずOPのマンガを描くペンの音が素晴らしいですね.そこから集英社の前に立つシーンに移りジャンプの歴史をナレーションで振り返るのですが,そこで歴代ジャンプ作品のコマやページが浮き上がり,移り変わりしていくシーンは「すごい」としか言えないです.少しでもジャンプに触れてきた人なら否が応でもテンションが上がらざるを得ない演出ですね.

他にも監督の「マンガを描くすごい演出」は随所で見られます.シュージンがネームをひらめいたときのシーンではネームがメガネに写っていたり,サイコーがマンガを描くシーンではペンの心地よい音に合わせてコマがシーケンシャルに移動していったりと「リズミカル」に表現されています.一方でエイジ君のマンガを描く雰囲気は暗い部屋で書道家のようにダイナミックにペンが振るわれており,実際のマンガの線も「ジャンプマンガだ!」と叫びたくなる力強さを湛えていると.

本作で登場するマンガそのものもすごいクオリティです.殆どは漫画家の卵さんが描かれているらしいですが,物語上で重要なものについては小畑先生が実際に描かれているらしく,その「画の説得力」は半端ないですね.特に主人公2人の画がどんどんレベルアップしていく様はマンガ素人が見ても一目瞭然で「マンガやべー」と思わずにはいられません.

マンガを描くシーンとは逆に,物語中盤での「シュージン・サイコーVSエイジ」のバトルシーンでは「役者の動きがマンガ的に切り取られる」という演出がされています.このシーン,これまでとはうって変わっていきなりデジタルな雰囲気に場面転換するのでかつて映画『UDON』におけるキャプテンUDONシーンを見てしまった僕としては「これやべーやつかも」と一抹の不安がよぎったのですが,そんな不安を吹き飛ばす「マンガかっっちょいい」シーンになっています.神木隆之介佐藤健は『るろうに剣心』でも共演しているのでこのアクションも息ぴったりですね.

 

しかし本編中でこんだけマンガを使ったかっこいい演出が頻出するのに,一番マンガ好きが高まる演出は最後のエンドロールに隠されていたりします.あれ,ジャンプ好きなら泣いて喜ぶ演出ではないでしょうか?

 

背景美術やセットについては,主人公2人の仕事部屋やジャンプ編集部の作りが「マンガ家の部屋」って感じが出ていました.編集部の部屋は実際のジャンプ編集者の方が驚かれるくらい緻密に作り込んであるらしく,その辺りの美術も物語の説得力を増すのに一役買っていたのだと思います.

 

このように,本作『バクマン。』は2時間という尺でどう見せるかを考え尽くした王道のストーリー,それを支える役者陣の演技と美術,そしてマンガ好きなら否が応でも高まる「マンガかっこいい」演出と,観客を楽しませる作り込みが素晴らしいですね.

だからこそ見終わった後には「日本のマンガすげー」と思わずにはいられなくなってしまう,そんなマンガ愛溢れる作品に仕上がっています.

 

少しでもマンガに触れてきた人,何か目標があってそれに打ち込んでいる人,目標を見失った人,そういう人が見たら元気が出る作品だと思います.

マンガの実写化はクソとか毛嫌いしないで,是非鑑賞して欲しい作品です.

映画『オデッセイ』は全理系が刮目すべき名作である

1週間ぶりの更新です.今日はアニメの感想ではないので需要がなさそうですが,すごい面白かったのでしっかり感想を残しておこうと思います.

 

きっかけはIMAX

自分は現在京都在住なのですが,最近京都にもとうとうIMAXが上陸したのです.

IMAX® || TOHOシネマズ

 

これはもう行くっきゃない!ということで,人生初IMAXを堪能しようと思ったわけです.

そこで選んだ作品が,表題の『オデッセイ』(原題:The Martian,火星人)だったのです.というか今IMAXで上映しているのが他にSTAR WARSしかなく,特にファンではなかったので実質一択だったわけですが(;・∀・)

 

とにかくそんな軽い理由で選んだわけで,後から#火星DASH村という感じで盛り上がっていたことを知りました.

corobuzz.com

結果としては前情報なしで行ったのはかなり正解でしたね.先入観なしで見れて非常に良かったです.後で詳しく説明しますが,個人的にはいわゆるDASH村的な前半よりも後半の展開のほうが感動的だと考えているので(といっても特にDASH村に詳しいわけでもないので事実誤認がある可能性も).

ただ,最近映画館で映画を観る人もかなり減ってきているみたいですし,STAR WARSのようなシリーズものではない作品がこのような形で盛り上がるのはすごいことだと思います.実際本作は大作がひしめく中でも一番のヒットを記録したみたいです.

火星DASH村!映画『オデッセイ』が2016年公開の洋画作品初の100万人突破! - AOLニュース

 

というわけで既に盛り上がっている本作を改めて自分が語る意味はあるのかという問題もあるのですが,1人の理系学徒として他では語られていない部分について何か残せればいいいかなと思います.

 

IMAXの映像について

初めにIMAXやら3D表現やら映画本編ではない部分について.

まず断言できるのは,この作品「断然IMAXがオススメです」ということ.

本編内で度々映される火星の壮大な風景,その雄大さ,優美さ,それと対比されるマット・デイモンの孤独感はIMAXの大画面でこそ堪能できると思います.

3D表現については,土砂の粉塵が飛び出してくる演出などがさりげなく,且つ迫力もあるといういい塩梅になっており「べろべろばー」的なびっくり3D演出ではないのが好感が持てました.個人的にはヘルメットを被って船外活動しているときの主観目線でデジタル表示が浮き上がっている表現が,自分が本当に今火星にいるような気分にさせてくれて最高でした.

また音響も素晴らしいですね.重たいものが落ちるときのドシンという音や粉塵がぶつかる音など足元から音が聞こえてくるのが3Dと相まって非常に迫力がありました.

これら1つ1つの表現がさりげなくかつ丁寧に作りこまれているので,2時間半集中力欠けることなく映画に没入することができました.

少なくともこの作品,自宅のPCモニターで鑑賞してたらもっと低評価をつけていたと思います.IMAXではなくても是非映画館で観て欲しい作品です.

 

ストーリーについて

※ここからネタバレが入ってきます

 

ストーリーについては皆さん御存知だとは思うのですが,有人探査船で火星に調査していた6人の内の1人,マット・デイモン演じるマーク・ワトニーが1人取り残されてしまう.そこからどうやって火星で生き残り,地球へ生還するかという話です.

本編は大きく分けると2パート構成になっており,火星で生き残る手段を模索する前半パート,地球へ帰還するための手段を模索する後半パートです.

 

前半パートは先程書いたようにDASH村的な感じになっており,火星という人類,というか生命に全く優しくない環境でどうやって水や酸素,食料といったライフラインを確保するかということを中心に描かれています.ただこの食料を確保するというくだりは結構短いので,本家DASH村的な火星での農作業を期待して観に行くと肩透かしを食らうかもしれません.その辺りはこちらでも言及されていました.

映画「オデッセイ」感想!前半は火星DASH村、後半は壮大なSF映画だった! - カズログ

 

後半パートは,マークがNASAとの交信に成功したことから,前半パートのマーク1人の物語からNASA本局,ひいては中国をひっくるめた科学者たちの物語にシフトしていきます.つまり火星に取り残されたマークを世界の科学者たちが総出で助けるというサイエンティストの駆け出しとしては胸躍る展開になっています.

尚この話,一部では中国に媚を売っているという話があるみたいですが,日本人が一切いない辺りにむしろ僕はリアリティを感じてしまいます.

www.news-postseven.com

少し未来を考えたときに,米国側からして軍事事情が不透明なロシア・中国,その中でも軍拡に熱心な中国が宇宙空間へ打ち上げるための動力を隠し持ってるって十分ありえる話だと思うんですけどね.そんなことより日本人はブレードランナー時代から代わり映えしない「日本描写」を改善する努力をするとか,ハリウッドで活躍する日系の俳優がいないこととか,日本の宇宙開発を初め科学事情が完全にアメリカに立ち遅れていることを問題視するとか考えるべきことが一杯あると思いますけどね.

 

本作の醍醐味は徹頭徹尾貫かれる「科学精神」にある

本作の魅力ですが,1サイエンティストの端くれの自分としては本作の「科学精神」に痺れました.

まず主人公のマーク・ワトニー,彼は一人になった火星で宣言します「地球の科学力を見せてやる」.このステートメントは彼自身が科学者であること,彼自身の強靭な精神,ポジティブな姿勢を表現していると同時に「この作品は気合や根性といった精神論ではなく,純粋に科学の手法を用いて解決します」という作品の姿勢の提示にもなっています.

そして実際に彼は「科学的手法」を用いて問題の1つ1つを解決していきます.その表れの1つが「徹底的な数字表現」です.彼は初めに,残っている食料の確認,次の探査船が火星にやってくるまでの時間の確認を始めるのですが,全てについて具体的な数字が表され,それは作品の最後まで貫かれています.この数字が表すものは2つあり1つは「根性論の排除」,もう1つはそれと対極にある「科学的な問題設定」です.数字で表すことによって「気合や根性で乗り切る」という観点を排除し,問題を科学的に捉える役割を果たします.例えば食料が300日分しかないけど次の探査船が来るのが600日後だとしたときに,「食料はないけど気合と根性で絶食すればなんとかなる」とか,もしくは「今あるだけじゃ足りないからどこかにきっとある食料を探しに行く」とかいうのが典型的な根性論です.一方で「科学的な問題設定」というのは300日分の食料の差を「数字」として認識するところから始まります.食事の例だけでなく補給船の開発や打ち上げスケジュール,そして救出に際しての脱出船の質量やランデヴーの相対速度,全てについてこの数字はある種残酷に見える形で彼らの前に,そして私たち観客の前に突き付けられます.そして本作の魅力は,そうして絶望的にさえ見える「埋まらない数字」をどうやって科学的に埋めるかとういうことに尽きるのです.

マークは300日の差をどうやって埋めるか,彼は「300日分の食料を作ろう」と考えます.そしてDASH村的なじゃがいもの火星での栽培が始まるわけです.じゃがいも栽培に必要な水は燃料から電気分解した水素と,酸素を燃やすことによって創出します.ここで描かれるのは科学の「実験精神」です.彼は初め酸素の量を間違えて爆発事故を起こしてしまいます.このシーン自体はかなり笑えるのですが,その後の彼の傷だらけの顔とクタクタになった表情を見るとすっかり笑えなくなります.しかし彼はめげずに「何が問題だったのか」を考え,改善し再度取り組みます.これはまさに科学の実験精神です.

このように,彼は知恵を働かせ,ポジティブに1つ1つの問題を解決していくことによって火星で生き残る方法を確立し,ついには地球との交信手法さえ見つけ出します.

彼のたゆみない努力と知恵,科学的な才覚が集約されたのがパスファインダーによる交信シーンです.彼はかつて火星探査で利用されていたパスファインダー(地球との交信機)を見つけ出し,交信するためにローバー(火星で探査を行うための自動車みたいなもの)をどうやって長距離運転させるか,毎日実験を続けることにより問題点を発見,解決し続けることによりついにパスファインダーまで到達します.しかしパスファインダーというアナクロな機械では1回の交信できる情報に限りがある,しかも時間がかかる.その解決のために彼が利用した「ある方法」は理系なら思わず唸らずにはいられない,非常に美しい手段でした.

 

ところで,このパスファインダーのシーンはマーク自身の視点から見ても十分に素晴らしいのですが,その交信相手であるNASAのメンバーの視点から見てもグッとくるものがあります.

マークが火星に取り残されてから54日目に火星の衛星画像をモニターしていたNASA職員は「異変」に気づきます.ソーラーパネルが砂埃を被っておらず,ローバーが移動している...ここでNASA側は初めてマークが生きていることを認識します.しかし,交信の手段を持たないNASA側はマークの探査車の移動パターンを見続け彼が何をしようとしているか考えます.そしてビンセントはひらめくのです「地図持って来い」と.

火星の地図が手もとにないので(それは流石におかしいと思うが),食堂に掛けられている火星の衛星写真の上からマジックでマークのローバーのルートをなぞるくだりも実験でひらめいたことやプロトコルのメモをキムワイプにあわててメモった経験がある人ならグッとせずにはいられないシーンです.

 

このように,このパスファインダーのシーンはこれまで別々に描かれていたマーク自身の視点,NASA側の視点が初めて「交信」するからこそカタルシスが生まれているのだと思います.

 

このシーンを端緒に,物語はマークの物語からNASAの物語へ,そして世界の科学者たちの物語へシフトしていきます.

連日の徹夜を強いられるNASAの補給船開発メンバー,最適航路の発見に取り組む学生,そして動力の提供をする中国航天局のメンバー,多くの科学者たちは彼一人の生命を救うことに全力を傾けます.この物語の登場人物たちは全て好人物です.ある種悪役的な役割を担う人物もいますが,それだって理由あってのことです.

 

そんな彼らの努力が描かれたからこそ,最後の最後で描かれる1%のファンタジーにも僕は納得できました.

 

マークの楽観的な人柄,善人の天才たちが総力を以って1人の火星人を救出する姿に見終わった後,とても清々しい気持ちになれます.

全理系はもちろん,理系に携わったことがない人にもオススメしたい2016年を代表する名作です.是非劇場で鑑賞してください.

 

 

余談ですが「異星に取り残されたひとりぼっち」と言えば比較せずにはいられないのが小川一水先生の「漂った男」です.

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方やビッグバジェットのハリウッド超大作が技術と予算を惜しみなく作ったのが「世界が一人の男を救う物語」だとするならば,こちらは一人の日本人作家が描いた「一人の男が世界から見捨てられる物語」だと言えます.

異星に1人で取り残されるという設定から出発した対極にある物語として堪能するのも面白いと思います.

こちらの短編集も「生きるとは何か」考えさせる珠玉の1冊ですので是非お読みください.

 

 

 

 

『楽園追放 -Expelled from paradise-』感想:戦闘シーンを楽しむ作品としてオススメ

こんにちは,昼休みを利用して忘れない内に感想をば.

 

昨日『楽園追放 -Expelled from paradise-』を鑑賞したのでその感想を上げます.

視聴形態について.BDをPCのプレイヤーで再生し,映像をプロジェクターに出力しました.ただ,音についてはサラウンドシステムがないので小型の2chスピーカーを用いており映像の大きさの割には音の迫力は若干物足りない感じでした.

 

脚本はまどマギで話題になった虚淵玄さん.

沙耶の唄』,『BLASSREITER』,『魔法少女まどか☆マギカ』,『翠星のガルガンティア』辺りを自分は触れているんですが,『沙耶の唄』『BLASSREITER』が良く出来ていただけに『翠星のガルガンティア』はかなり物足りなく感じました.

 

個人的には,虚淵玄さんの魅力が発揮されるのはホラー寄りのファンタジー作品だと思っています.というのも,虚淵作品のストーリープロットというのは対立構造が単純かつ明確になっているので,ストーリーをそのままなぞっても面白くない,故にその対立構造に苦しむ登場人物を主観的に描くことで深みを与えているのだと考えています.そして,主観的に苦しむ表現というのはホラーというジャンルとよくマッチするということです.例えば,彼の代表作『沙耶の唄』ではある日突然世界がとても醜悪に見えるようになった主人公の物語です.主人公は醜悪に見える世界を選ぶか,それともかつての正常な世界に戻るのかという2択を迫られるのですが,それまでの過程が彼の恐怖や快楽といった原初的な感情に訴える描写を通じて切々て描かれており,それが結末を陳腐化させない作りになっています.『BLASSREITER』では周囲の仲間たちが次々とゾンビ化していくという過程を主人公の目線を通して描くことで世界の切迫感,主人公の孤独感を描いていました.『魔法少女まどか☆マギカ』については言うまでもないでしょう.魔法少女たちの物語は徹頭徹尾主観的なものでしたから.

 

一方で『翠星のガルガンティア』という作品を通してみると,主人公が属する世界と漂着した星での世界における世界観の対立という,これまでみられたような世界観の対立構造は見られるものの,これまでの作品と比較すると物語の進行は淡々としており,牧歌的にすら見えます.これは,他の作品と異なりガルガンティアディストピア的な世界から自由な世界への移行という,ポジティブな変化であることも理由の1つですが,ロボットアニメ故のヒロイスティックな主人公の属性がそれを阻んでしまったことにあるのではないかと思います.このように主人公の葛藤が弱いため,後半でのドラマティックな展開も「いつもの展開ね」と軽く受け止められる作りになっているのではないかと思います.

 

本作品『楽園追放 -Expelled from paradise-』はSF,ロボットアニメということ,しかもディストピアから人間らしい世界への移行という点で『翠星のガルガンティア』と似通っている部分が多いです.

そして,僕が懸念していた通り,本作でもストーリーの弱さはかなり際立っていました.

ディストピア世界から来た主人公アンジェラと,人間らしい世界の代表ディンゴ,そして人間よりも人間らしいAIフロンティアセッター,という役者の時点でお察しですが虚淵玄作品を見慣れてなくてもそこら辺のSFを多少見ていれば先の展開はかなり読めてしまいます.

以下,ネタバレが増えていくのでご注意願います.

 

 

 

本作のストーリー上の重要なカタルシスポイントとしては,ディストピアの世界観に染まりきったアンジェラがディンゴとフロンティアセッターと交流する内に考えを改め,DIVAの世界観から開放されるところにあります.もう1点は,フロンティアセッターの外宇宙への旅立ちと,アンジェラの生きる目的の発見です.

 

最初の点については,見なくても予想できるくらい分かりやすい展開なのですが,映画として物足りないのは,アンジェラが世界観を改めるのに必要な要素をほぼ全てディンゴの語りによって説明してしまっていることにあります.そもそもアンジェラという存在自体,DIVAの代表としても空虚に見える,というのもこれもディンゴのセリフによって説明されてしまうのですが「DIVA民はメモリの割当によって自由を制限されている,故に自由を拡張するために社会の奴隷と化している」わけですが,肝心のDIVA民の自由が制約されている感じがDIVA世界の描写が弱いために伝わってこず「ディストピア世界だし,みんなわかってるよね」と視聴者の想像力に委ねる形になっています.アンジェラにしても,仕事の成果を求めるエリートという感よりはツンデレ感が先立ってしまって結構「人間らしい」ですし.その辺りの弱さ含めこの展開はイマイチ感動できませんでした.夜空を見ながら2人で会話するという構図自体は美しいんですけどね...

 

第2の点については,フロンティアセッターがアンジェラよりもディンゴよりもある意味で最も人間らしいという展開は素直に面白いと思いました.ディンゴが何故外宇宙への探求を選ばず,地球に残ったか,この点は考察できていませんが,物語中の彼の生き方を観るに,彼は現世的な欲望の象徴としての人間性を象徴しているのではないかと考えています.金,肉,睡眠,音楽といったもの(物理的な人間でないと楽しめないもの)を彼はこの上なく楽しんでいるように見えます.一方で外宇宙への探求というのはそういう現世的な欲望とは対極にある,知的好奇心を象徴している.だから彼は外宇宙へ旅立たなかったのではと考えています.

主人公であるアンジェラの選択のシーンは劇的な演出があって非常に気持ちいいですが,アンジェラが空虚に見えてしまったので若干弱く感じました.

この作品通して,アンジェラは割と典型的なツンデレキャラに堕しているキライがあって,一方でディンゴは万能すぎるんですよね.その辺りもストーリー的にちょっとのめりこめない点ではありました.

 

ストーリーについては結構難点をつけてしまいましたが,戦闘シーンの演出面は近年のロボットアニメの中でも白眉のシロモノでした.

まず,スタッフに00の水島精二エウレカセブン京田知己,そしてマクロス板野一郎とこれだけ豪華なスタッフがよくもそろったものです.序盤のサンドワームとの戦いから始まり,後半の宇宙戦〜地上ゲリラ戦と戦闘シーンは何回も見直したくなる作りだと思います.

 

アンジェラが地上戦で最後に戦うシーンなどは00のトランザムにしか見えない動きをしており,00好きとしても楽しめました.

後は宇宙空間のミサイルを撃墜するシーン,アーハンの動きが急激に変わりミサイルを撃墜し,レールガンを発射し撃ち落とす流れは素晴らしいですね.個人的には撃ち落とした後,さらっと装備を宇宙空間に投げ捨て変形する流れがツボでした.

ゲリラ戦のシーンは,ゲリラという地形と罠を利用した戦いと圧倒的戦力による消耗戦がいい塩梅になっており,防御側の一方的な強さに終始せず,また,DIVA側に圧倒されるわけでもなく素晴らしかったです.

 

ちょっと残念だったのは,アンジェラの顔は映るのに殺される側のパイロットの顔は映らず,ラストでちゃっかり生き残っている描写があるのは残念で,ちゃんと相手のパイロットを殺す必要があったのではないかと思います.

そしてアンジェラちゃんはしっかDIVAに対する反逆者として永遠に追跡されて欲しいですね.

 

というわけで,楽園追放,オススメです.

 

 

 

 

 

KING OF PRISMについて考える

先日の酷評記事

twinkle-sa.hatenablog.com

がなんと,なないち研様の感想リンク集にリンクしてもらえました.

kensetu.hateblo.jp

絶賛の嵐の中にポツンと罵詈雑言があるのはなんとも居心地が悪い気もしますが,嬉しい限りです.

 

今日は,映画本体の感想から離れて,映画本編を見に行っている人はKING OF PRISMのどこを楽しんでいるのか?何故自分は楽しめていないのか?という1歩引いた目線で考えてみようと思います.

 

上の感想リンク集のリンク先をさらっとチェックした感じ,感想として多かったのは主に

1.笑える

2.泣ける

3.見ると元気になる

の3つでした.

togetter.com

 

1.笑えるについては「腹筋崩壊www」とか「合法ドラッグ」とかそういう感想が当たると思います.裸がいっぱい出てくるところとか,自転車デートしてると思ったらいきなりE.Tになるところとか,やたら大規模な赤字とか,謎料理とかツッコミどころいっぱいなところを笑い飛ばして楽しむ映画ということでしょう.

2.泣けるについてはおそらくコウジ君がOver The Rainbowから脱退してハリウッドに旅立つシーンのことだと認識しています.実際自分が劇場で鑑賞しているときも,このシーンでメガネを外して涙を拭っている方がいらっしゃっいましたし.

3.見ると元気になるというのはクライマックスの一条くんのプリズムショーのことかと思います.コウジ君がOver The Rainbowを去ることになり失意のどん底にある観客たち.しかし,その前に颯爽と現れたルーキーの心煌めく演技に視聴者は魅了され,元気をもらったということではないでしょうか.

以上3点について私の認識が間違っていなければ,楽しんでいる方々の「この映画のみどころ」ということになると思います.

 

この中で1の「笑える」については,何を以って笑えるかどうか考察するのは難しいですし,実際私が観たときに笑えたシーンもいくつかあったので,この点については割愛することにします.なので,ここではKING OF PRISMが「泣ける」,「見ると元気になる」という点について考えてみようと思います.

 

まず,「泣ける」という点についてですが,先日の感想記事で書いたように私自身が泣けない理由としてOver The Rainbowが結成されてからの3人の物語が描かれていないので,別れにカタルシスを求めるのが難しいと書きました.

レインボーライブファンの私としては,ヒロ,コウジ,カズキがそれぞれ心の葛藤を抱えながらも最終的に和解しOver The Rainbowを結成する,というのがTV版での最もカタルシスを生むポイントであると思っていますし,KING OF PRISM本編中のOver The Rainbow結成までの総集編ではちょっと泣きそうになりました.

KING OF PRISMでもしコウジの別れを劇的にしたいなら,Over The Rainbowとしての苦難や葛藤を乗り越え,絆が深まったところでの「別れ」であるべきだと思うのが僕の意見です.

 

一方で,Twitter上で見られた興味深い感想として「1回目は笑ったけど5回見ると泣く」というものがありました(元ツイートのリンクを失くしてしまいました).

流石に5回観て本当に泣けるかどうか確かめる気はありませんが,ここで考えられるのは,何回も映像体験を重ねることによって「設定に入れ込んでいる」状態になっているのかなということです.設定に入れ込んでいるというのは,決して物語上に明示的な描写がなくても「別れ」というシーンに感動できてしまう,もっというとOver The Rainbowの3人の気持ちを汲みとってあげてしまう,ということです.もちろん何回も観てなくてもそういう見方は可能だと思うのですが,ルーパーだとそういう見方が補強されるのではないかと考えました.

別にKING OF PRISMに限らずそういうモノの見方は誰しもやっていることで,例えば理由がなくても子どもが泣いてるシーンがあったら,こちらも泣きたくなってしまうとかそういうものではないですかね.「子ども」「泣く」というキーワードに自分の心が反応して幼少期の何かが呼び起こされる感じ,そういうものをKING OF PRISMにおける「別れ」のシーンから汲みとったのではないかと思います.

 

別の可能性としてOver The Rainbowのファンという立場で泣くという可能性も考えられます.Over The Rainbowが活動休止してしまう,コウジ君がハリウッドに行ってしまうということについて劇中のファンの目線と同一の目線で鑑賞していると別れのシーンは泣けるのではないかと思います.

この点については,Over The Rainbowのファンではない自分の立場からは検証不可能なので誰かの意見を伺いたいところです.

 

以上が,泣ける映画としてのKING OF  PRISMの考察でした.

 

次に「見ると元気になる」という点について考察しようと思います.

元気になるというのは,曖昧なので実際の感想から拾ってくると

「見るとハピなるな気持ちになる」「久しぶりに心の煌めきを取り戻せた」と言った,

プリズムショーの本質である「心の煌めき」に言及している感想が目立ちました.

なので,ここではプリティーリズムシリーズにおける「心の煌めき」について考え,KING OF PRISMと比較しようと思います.

 

まず初めに,プリティーリズムシリーズで描かれた物語について総括しようと思います.

 

プリティーリズムオーロラドリームを一言で説明するなら「プリズムジャンプは心の飛躍」という言葉に尽きると思います.

この言葉は,練習してもプリズムジャンプが飛べないりずむちゃんに対して純さんがかけた言葉です.意味するところとしては,自分の内面をさらけ出すこと,自分の純粋な気持ちをジャンプに込めることこそがプリズムジャンプを成功させる秘訣だということだと思います.プリズムジャンプというのは単純に練習だけで成功するようなシロモノではなく,自分の内面というのが強く関係していることがこの言葉には端的に表されています.但し,だからといってプリズムジャンプを飛ぶのには才能や自分の内面が充実していればいいか?という訳ではなく,元がスケートである分,日々の練習も欠かせません.そもそも,プリティーリズムオーロラドリームにおける登場人物たちの目標設定は究極の技である「オーロラライジング」を飛ぶ,もしくは乗り越えることにあった訳で,技に対してストイックな姿勢を貫いたのがりずむであり,みおんでした.あいらという天に選ばれし者は,この2人の仲間であり,ライバルがいたからこと成長できたわけで.オーロラドリームがあいらという天才ただ一人の物語であったなら,天才が天才故に成功するというだけのなんとも味気ない物語だったと思います.

因みにオーロラドリームの総評としてはこちらの記事が非常によくまとまっていると思いました.

ツイプレッション : 主題を大切にしたアニメの素晴らしさ 「プリティーリズム・オーロラドリーム」総評

 

 次に,春音あいらという天才を上葉みあという凡人が乗り越えるという物語がプリティーリズムディアマイフューチャーでした.彼女のプリズムジャンプである「きらめきフューチャースター」は彼女の真っ直ぐな内面を象徴していると共に,その技が段階的に発展していくという演出は,彼女の成長を表す手法として素晴らしかったと思います.(ディアマイフューチャーはそこまでちゃんと観てない)

 

レインボーライブでは,天才彩瀬なるを筆頭にした6人の子どもたちの物語だったと言えます.初め敵同士だったプリズムストーンのなる,あん,いととエーデルローズのべる,わかな,おとはが一緒になり,切磋琢磨しあう関係にまでなり,最終的には6人で心の煌めきを取り戻すという展開は,前作までよりも人間関係に焦点を置いた群像劇としての趣が強いように見えます.オーロラドリームで見られた天才枠としての存在が彩瀬なるですが,それとペアになるのが蓮城寺べるというこの作品におけるもう一人の主役です.おっとりした父母に囲まれていつも元気一杯,だからこそもっている心の煌めきというあいらを彷彿とさせる設定の「なる」,一方で厳しい母親に躾けられ,競争を余儀なくされるエーデルローズの中で勝ち抜いてきたエリートとしての「べる」,2人は表と裏の関係になっています(この表裏の対立構造はあんとわかな,いととおとはにも当てはまりますが).天性でプリズムライブを演じることができるなると,厳しい練習を重ねてもプリズムライブに失敗するべるという構造はあいらとりずむの関係に通じるところがあります(ライブ以外の点ではべるに全く及ばないなるの挫折もきっちり描かれています).仲間に助けられることによってプリズムライブを成功させることができるようになったべるは,その後なると共に過ごすことによって成長を遂げ,最終的にはオーバー・ザ・レインボーセッションで優勝するまで上り詰めることができます.これによって(おそらく誰よりも練習した)彼女の努力は報われるのです.もちろん天才であるなるも,仲間たちの存在を通して初めの頃からは考えられない程成長を遂げます(1000%ピュアピュアアローは最高のプリズムジャンプの1つだと思います).ただ,レインボーライブでの物語としてのカタルシスはいととコウジの話やあんとわかな,ヒロといった主人公の周りに多く,それこそが,天才「彩瀬なる」の物語に終わらせない作りになっていたのだと思います.

 

総括すると,オーロラドリーム,ディアマイフューチャー,レインボーライブ,一貫して描かれていたのは,あいら,なるという「天性の心の煌めきを持っている者の物語」,というよりはむしろ「天性の心の煌めき」に触れることによって登場人物たちの心の煌めきが開花し,成長していく物語だったのではないかと思います.

 

このような点から考えると,KING OF PRISMでの一条くんのプリズムショーは,私にはどうしても「天才が,天才である故に成功したプリズムショー」に見えてしまい,彼自身の心の煌めきの成長が見られないから元気も感動も生まれないのではないかと思います.レインボーライブで例えると,1話でプリズムライブに成功したなるちゃんが初めにべると戦うときに1000%ピュアピュアアローを成功させてしまう感じですかね.もう1点はやはり「べる」のようなライバル的存在がいて,2人で高め合う展開があればもう少し良かったと思います.

 

一方で,ぼくがなるちゃん大好きだからなるちゃんに甘いという可能性もあります.成人男子が女児に甘いのは世の理,可愛いは正義ですからね.

 

ただ,そのような物語的な点を差し置いてもやっぱり一条くんのプリズムショーはダメだと思います.それは,KING OF PRISMにおけるプリズムジャンプの扱いが酷いからです.

先に述べたように,「プリズムジャンプは心の飛躍」でした.「オーロラライジング」を初めとするプリズムジャンプは,心の煌めきの投射という面があり,物理的な飛翔と心的な飛躍をマッチさせる非常によい演出手法でした.ディアマイフューチャーの「きらめきフューチャースター」も心の煌めきを象徴するジャンプの1つですね.もうちょっと象徴的なものだと「フレッシュフルーツバスケット」はお菓子屋の娘であるあいらの女の子らしい一面が表出したジャンプだと考えられます.飛翔をイメージしたプリズムジャンプには「MARSフェニックス」や,「スターライトフェザーメモリー」があります.象徴的なものとは別に,物語的なプリズムジャンプもありました.「2人のロマンティックショー」や「赤い糸,夏の恋」などはジャンプ自体に意味があるタイプのものです.

様々なプリズムジャンプがありますが,どのプリズムジャンプにも共通するのは「心の飛躍」という点です.レインボーライブファンとしては特に「スターライトフェザーメモリー」が白眉だと思っていて,なるとべるという「別々の2人」が「一緒になることで」得られた成長の奇跡,成長の軌跡を象徴している素晴らしいジャンプです.

このように,プリズムジャンプというのは物語で描かれた心の煌めきや成長というのを曲にのせてジャンプという1つの技に込めるものだと思います.

 

一方で,KING OF PRISMで描かれるプリズムジャンプというのは彼らの心の煌めきというよりも「女性に向けたセックスアピール」に大部分が見えてしまう,少なくとも自転車2人乗りやE.TのパロディにはOver The Rainbowの心の煌めきを感じ取ることはできません.カズキの心の剣はアレクサンダーの筋肉によって物理的に受け止められてしまいますし,コウジくんがはちみつキッスする理由が「唇のどアップを映したい」以外僕には分かりません.無限ハグも「愛の象徴」というよりは「性の象徴」って感じがしますし,裸で観客に抱きつくのは心の煌めきではないと思います.

最後の一条くんのプリズムジャンプは唯一彼の心の煌めきを象徴しうる場面なのですが,「校舎の屋上で叫ぶ」という演出は従来のプリズムジャンプで描かれていた飛翔のイメージが失われてしまっており,音楽との相乗効果を得られないばかりか「止まって見える」という逆効果になっています.更に,観客が露骨なピクトグラムで描かれているのも嘘くさく見えてしまい,全体的にげんなりする感じです.後,突然なるたちのプリズムショーを回想シーン的に入れても「お約束感」というか「レインボーライブファンもこれで満足でしょ,という言い訳感」しか生まれずむしろ腹が立ちます.

 

一条くんのプリズムジャンプを綺麗な形にするんだったら,今まで演出で使ってきた,オーロラや虹,翼といった飛翔のイメージを全面に出したプリズムジャンプの方が少なくとも僕は感動できました.

 

ただ,こちらにも男性の裸が気にならない,とか,むしろセックスアピールの描写が嬉しい層もいるでしょう.「学校へ行こう!」を観てた人にはオススメ!,みたいなツイートがあったので.屋上で叫ぶ的な演出が世代的にウケているのかもしれません.なので,究極的には感覚的に「ノレるかノレないか」の差に回収されてしまう気もします.

 

まとめると,物語的に,ジャンプの演出面,2点から一条くんのプリズムショーはノレないし,見終わった後心の煌めきが充填される感じもなかったのですが,僕が気にした点,つまり成長を求めない.セックスアピールを気にしない方なら心の煌めきを感じ取ることができるのではないかということです.

 

 

長くなってしまいましたが,KING OF PRISMを観て思ったことは全てまとめられたと思います.自分の感想と周りの感想がかけ離れているのは初めての体験だったので新鮮です.是非,キンプリ面白かったという人からの感想が聞きたいです.

 

 

 

 

 

 

KING OF PRISMは2016年ぶっちぎりのクソ映画である

約2年ぶりの更新となります.

 

色々と一息ついたので,心機一転また頑張って書いてみようかと思ってます.

読んだ本や,アニメ,映画の感想などについて細々とでも感想を残していければいいなぁとユルい気持ちで頑張ります.

 

さて,表題の件です.先日大きな仕事が終わり早速遊ぼうと思ったのですが,真っ先に「映画見たい!」という気分が自分の中で盛り上がってきたんですよね.

 

というのも,昨年末くらいから『ライムスター 宇多丸のウィークエンドシャッフル』を聴き始めて,きっかけはYouTubeにUPされている『こころが叫びたがっているんだ。』評を聴いたからなんですけど.とにかく,この宇多丸さんの評が非常に的確で「自分がなんとなく思っていたこと」を明確な言葉で明らかにしてくれるのが聴いていて非常に快感だったんです.やっぱり「映画を観て語り合う」ってとても面白いことだなと改めて認識させられたわけです.

 

というわけで,冒頭の「映画見たい!」に戻るわけですが,この時期結構面白そうな映画がいっぱいあって『ザ・ウォーク』,『ブリッジオブスパイ』,自分はフォロワーではないですが『スターウォーズ』と大作が揃っていた訳です.

そんなとき,ふとこんなブログを発見してしまった訳です.

 

irissoku.com

 

自分はプリティーリズムシリーズは『オーロラドリーム』と『レインボーライブ』はかなりのファンでして,まぁ『ディアマイフューチャー』は完全に駄作だとおもっているんですけど,『レインボーライブ』については女児アニメ史上に残る傑作だと考えています.その『レインボーライブ』の監督をされた菱田さんがここまで切実に思いの丈をぶつけられているなら1ファンとしては燃えますし「観るっきゃない!」となったわけです.

 

WEBで即座にチケット予約をして劇場まで運んだのですが,シアターに座って「あれ...?」と最初に感じた違和感が,自分の席の周り殆どが女性で囲まれていたことなんですよね.確かにOver the rainbow(レインボーライブの花形男3人によるユニット)は大人の女性向けだけど,プリリズ自体は大人の男性のファンも厚いし,事前にTwitterで軽く調べた感じでは男性も面白いって言ってたけど...あれ?あれ?と思った訳です.更に予告編が流れ始めた時点でこの違和感は加速していきます.実写版『黒崎くんの言いなりになんてならない』といういかにもな女性向け作品の予告が始まったと思ったら(どうでもいいけどこの作品も予告編から猛毒級のヤバさが漂ってますよね),

kurosakikun-movie.com

次に流れてくるのは『同級生』ですよ.

www.dou-kyu-sei.com

この時点で「あーヤバイ,来る映画間違えたかも...」と思ったのですが時既に遅し.気づいたら例の映画泥棒がクネクネする映像が流れ始めて,ジェットコースターが発射する前にシートベルト締めてる気分でした.

それでも「菱田監督だから!プリリズだから!」という一縷の望みはありました.

そして,映画本編が始まって3分後...

 

僕の最後の希望は見事に打ち砕かれました.

 

とか最初書こうかと思ったのですが,本編始まる前に「週替り出場者アピール」とか言って,まだ存在すら知らないキャラのドラマCD調の息多めの声がキャラの静止画が映しだされたままのスクリーンと共に流れてくるリピーター商法みたいなことやってたんですよね.一言で言うとね,

「キモい」

 

はい,本編の話に戻ります.上映開始3分後...

 

ヒロさんの無限ハグ(何故か裸),に包まれて絶頂する主人公一条くん,そしてトリプルジャンプでは女の子と2ケツで自転車に乗るというシチュなのですが,顔部分にシェードが入っているのはもちろんのこと(髪色と髪型見ると,べる,あん,いとっぽかった),女の子のセリフはボイス無しの字幕という徹底ぶり.

 

「あ,これはアカンやつや」不安は確信に変わりました.

 

一応最後まで集中して視聴継続したのですが,その後もお話として面白い部分も,演出が際立っている部分も特になく,かなり残念でした.むしろこれまでプリティーリズムレインボーライブが築いてきたものを(意図的に?)ぶち壊す演出が目立っていましたね.

その辺りについては,

プリズムストーンは居酒屋じゃない - ユーザーレビュー - KING OF PRISM by PrettyRhythm - 作品 - Yahoo!映画

このレビューが的確に指摘してました.

 

演出の話になったので,ここで初見の1視聴者としてストーリーや演出について気になったことを書いておこうと思います.

 

ストーリーについてですが,Over the rainbowとしては成功しているけど所属元のエーデルローズの経営難でコウジが海外に移籍するので,新しい新人スターを後釜に据えよう,という2行で語れる話なので,話なんて「あってないようなもん」です.

ストーリーにまつわる演出面は細かいところで気になる点が結構あって,経営難にまつわる部分でのお金の話がかなりおざなりになってます.ヒロが相変わらず住んでいるボロアパートでコウジが作る最高級食材を使った豪華絢爛な料理という取り合わせに象徴されているんですが,わざとやってるならもういいんですけど,ミスマッチ感が酷いですよね.後,経営苦しいならOver the rainbowのライブのコストを削ればいいんじゃないですかね.最後のライブ,内輪向けの小さいイベントという名目だったと思うのですが,背景に変な神殿ありましたよ.いや,あの建物は実在のものとかそういう話ならもう良いですけど,それこそレインボーライブのようにライブハウス調の箱の中でやればいいんじゃないですかね.

とか細かい突っ込みどころはまぁこの作品の本質とは関係ないのでいいです.聖さんが明らかに無能なのに選手としての実績だけ買われて経営やってるとか寧ろリアルとか.プリズムショーって明らかにめっちゃ金かかってるのにスタッフの気配が皆無とか,ね.

 

この映画のストーリーで最もカタルシスとなるのは「コウジとの別れ」と「奇跡の新人一条くんの誕生」って2点だと思うんですけど,Over the rainbowってレインボーライブでも結成したの最終話だし,映画本編で3人の絆やこれまでの苦闘みたいなものは殆ど語られません.あるのはレインボーライブ本編のOver the rainbow結成までの3人の成り行き(ご丁寧になる,べる,いとといった3人にとってかなり重要なポジションである登場人物の話は綺麗に排除されてます)だけです.なので本編観ているだけで「コウジとの別れのシーンで泣けるか」って話になると,ちょっと無理筋だと思います.

因みにこの別れのシーンで電車の行き先が「For Hollywood」になるの,ギャグにしか見えないしギャグだとしてもあんまおもしろくないです.

 

次に,新人スター一条くんの話です.映画本編のクライマックスはコウジの別れの告知の後でショックを受けているファンの前に颯爽と一条くんが登場してプリズムショーで観客に心の煌めきを届けるという展開になってます.ここの一条くんのプリズムショー自体はCGの気合入っているし,今まで作曲を担当されていた山原さんとは別の方が作曲を担当されているためか曲全体からフレッシュ感が漂っていて非常に良かったです.

但し,ここで問題になるのが「何故彼はそこまですごいプリズムショーをできるか?」という点です.一条くんがプリズムショーに向けて特訓するという描写があれば少しは納得できるのですが,描かれたのは強面のコウジがジャンプすると投げキッスしてきて「心の内を曝け出せ」みたいなことを叫ぶ意味不明な特訓もどき.すると何故か心の内を曝け出した一条くんはプリズムジャンプに成功してしまうわけですよ.この流れでジャンプに成功したのも意味不明なんですけど,この1stジャンプ成功からラストのショーまでの間,彼がプリズムショーに向けて訓練する姿は全く描かれないわけです.「プリズムショーは心の煌めき」だから心が輝いていればいいショーができるということなのでしょうが,じゃあそれなら練習って何のためにするのか?って話になってしまうんですよね.特に一条くんの場合,物語中で何かスポーツを嗜んでたとか運動神経が優れているような描写は全くないので,彼がプリズムショーをできることの説得力は全くないわけです.もちろん,歴代のオーロラドリームのあいらや,レインボーライブのなるだって心の煌めきによって初めてのライブで成功はしますが,その後の練習シーンはきちんと描かれていますし,レインボーライブのべる様は練習の鬼ですよね.

練習する時間を描く時間がなかったなら,体中に絆創膏貼るとか,顔に痣つけるとかいくらでもやりようはあると思うのですがそういう配慮は一切なし.

 

こういう,物語上必要そうな描写は削るのに,唐突に勃発するストリートバトルみたいなのには尺割るんですよね.あのストリートバトルも,カズキの剣はヒロの心のPRIDEをぶった切る心の剣だったはずなのに,相手の体に直接切りつけにいったあげく腹筋で受け止められるというギャグなのかなんなのかわかんない演出で陳腐化させられてしまって,本編視聴者を敵に回したいのでしょうか?EZ DO DANCEのCGも使い回しだったので,男性らしい動きとか筋肉の質感とか全然ダメだったので全カットすればよかったのに.

 

まぁギャグという意味でこの作品のストーリー上一番笑えるポイントは「いいプリズムショーをやるのに必要なものってなんですか?」という質問に「仲間だ」と答えたコウジ君が金欠で海外に売り飛ばされるという話そのものにあるんじゃないですかね.

 

男性がやたら裸になったり,キスの口アップが描かれたりするのは気持ち悪いとは思いますが,まぁ女性向けファンサービスとして許せるレベルかなと思います.

 

以上,ストーリーと演出にまつわる話.

最後にこの作品を観て1番許せなかったポイントの話をして終わりにしたいと思います.

 

これは気になったので,視聴後に公式サイトとか見て明記されていないのを確認したのですが,1本の映画としてありえないと思うんですけど「前篇」や「1st」と書かれていないのにもかかわらず物語の中盤で話が終わっちゃうんですよね.映画館という空間で「1本の物語を楽しむ」という映像体験を求めてる観客に対して非常に不適切な態度だと言わざるを得ません.

そのクセして,初見さんは友人を連れて見に来てくださいとか,よくいえますよね?

 

そういうわけで,個人的には魔法先生ネギま!以来のクソ映画,どれくらいクソか気になる方はWatch men!

 

 

『ROBOTICS;NOTES(ロボティクス・ノーツ)』感想

久しぶりの更新です.

 

5月に鹿児島に行ったときにコラボポスターを見て興味を持ち衝動買いしてしまった『ROBOTICS;NOTES(ロボティクス・ノーツ)』(PS3版).先日やっとクリアしました.

 

この作品をプレイして幾つか思った点を述べていこうと思います.既に他のサイトでよく書かれていること(ついポ返信でのフラグ立てが面倒など)は割愛

1.主役2人の性格が受け入れられない

2.ロボット作りの設定って必要だったのか?

3.終盤の展開が酷い

 

1.については掲示板とかでも散見されたのですが,とにかく主人公である「海翔(かいと)」君とヒロインの「あき穂」のペアが酷い,端的に言うとウザキャラです.

海翔君はストーリー最初から終盤まで大体ウザいです.最近流行りの設定?か分かりませんが,このキャラ基本やる気がありません,中二病みたいなやつです.それは置いておいて私がこのキャラをウザいと思う点は以下の二点に集約されます.

・みさ希との約束しか考えていない

・上の場合を除くと,ゲームの事しか考えていない

「みさ希との約束しか考えていない」,というのは幼い日に彼女と誓った「あき(あき穂)のこと,よろしくね」という約束を果たすことしか考えていないということです.別に子どもの頃の憧れ,且つ淡い恋心を抱いている相手との約束を守ろうとするのは構わないのですが,それ以外のこと,人物に対する無頓着さが際立っています.

 例えば,昴から安全性が考慮されていない「ガンつく1」のパイロットが淳和になりそうなときも,「俺はあき穂のこと以外はどうでもいい」と一蹴しています.

これだけでも相当ウザいのですが,じゃああき穂が困っているときどうやって助けるかと言うと.基本的にはパッションフルーツまんを食べて裏情報を仕入れるだけです.好意的に捉えるとあき穂の自主性に任せるといったところだと思うのですが,お前他にやりようはあるだろっ,と突っ込まずにはいられません.その癖して周囲から評価は「いつもあき穂を支えていて偉い」となっており意味不明です.

 もちろん個別ルートに入ってからはちょいちょいやる気を出す場面もあるのですが,基本評価が最底辺に落ちてしまってからは回復しようがありません.

「ゲームの事しか考えていない」というのも同様で,いちいち「ゲームをやる時間が云々」とモノローグで呟くのが気に障ります.一応綯さんルートに入ったとき「こんな自分キモい」みたいに自省している場面もあるのですが,全編に渡ってキモいのでさっさとそのくだらないゲーオタ根性は捨てて改心するべきだと思われます.

 

 この海翔君だけでも相当ストレス溜まるのですが,すかさず追い打ちを掛けてくるのがヒロインのあき穂です.非合理的・空気嫁・能なしと三拍子揃ったウザかわヒロインです.こいつが部長になったせいでロボット製作が難航しまくります.さっさと昴君に全権委任すればどれだけ捗るか...そのくせこの部長,「みんなに役割がある」とかキレイ事ぬかしやがります.ロボ作りに最も貢献しているのは昴君とフラウ坊の2強チートキャラで後はぶっちゃけ誰でもいいです.主人公とかロボ作りに全く参加しませんし.

 更にあき穂はあき穂で海翔に負ける劣らずの重度のシスコン...「お姉ちゃんに追いつくのがウチの夢」ってお前それでいいの?と思わずにいられません.しかも,その自分勝手な夢が昴の事故で頓挫しそうになったときも「海翔だけはついてきてくれる筈」と勝手に期待してそれが断られると逆ギレします.かなりヤバいです.可愛いところもありますが.

 

 ついでに,この2人ほどではありませんが淳和ちゃんもウザいです.話すのがオドオドしすぎててボイススキップ常用になります.

 

必然的に残りのキャラ,昴・フラウ・愛理が絡んでくるエピソードが面白くなってきます.7章フラウルートと8章愛理ルートは非常に秀逸,感動的な話でした.

まぁ,フラウの自殺はともかく(君島レポートの詳細を何故フラウに教えてあげないのよ),コールドスリープされていた愛理を警察に預けるとかUMISHO氏の予想の斜め下を行く行動には驚かされました.まぁフラウかわいいよフラウなので許す.

 

2.ロボット作りの設定って必要だったのか?

 この作品,序盤は「きっとこれから仲間が集って衝突や和解,試行錯誤の末ロボットが完成するんだろうな」と期待させてくれるのですが,その期待は脆くも崩れさります.なんとロボ作りの場面,殆どありません.主人公が君島レポート集めと各ヒロインとキャッキャウフフしてる間にロボットが完成しているのです.しかもせっかく作ったロボ2号機,活躍の場は昴君を潰すのと万博でSUMERAGIに折られるだけという.まったくの噛ませ犬です.ロボティクス・ノーツという名前に恥じないようもう少しロボット開発の話とか入れられなかったの...

 

3.終盤の展開が酷い

 もちろん分かっています,ロボットを作らせたのは最終決戦でみさ希とバトルするためだろうと.主人公が格ゲーオタという設定もそこに合わせてのことでしょう.それにしても仮に試作段階のコンセプトモデルとは言え一流企業が開発した軍事用ロボットに鈍足・ハリボテの1号機が勝てるとは思えません.もっと確実な方法あるでしょう...

 他にも鳥が銃を奪ったりとかこの作品,終盤のパワープレイで色々やらかしています.さわやか3組ばりの「教頭先生やクラスメイトとの和解」はまあ許そう.しかし,降って湧いたあき穂とのシーンはなんでしょう?全く意味不明です.

 それを乗り越えての最終決戦ですが,主人公がスローモーを連発するせいでテンポ悪いすぎです.(2回のスローモーでへばって寝込んだ奴と同一人物とは...いや,最早何も言うまい) 最終決戦の後の「ミサ姉は2度と起きないかも」みたいなモノローグもとってつけた感が酷いです.いや,お前ミズカさんのメッセージ伝えなくていいのかよ.

 

 とにかく,終盤の超展開のせいで今まで積み上げてきたものが総崩れになってしまいました.とても7章,8章をあれだけ綺麗にまとめたライターと同一人物が書いたとは思えません,時間なかったんでしょうか?

 

まとめると,主役キャラのウザさと中盤から終盤にかけての話の展開のまずさ,翻ってみれば構成力不足がこの作品を徹底的にダメにしてしまいました.カオスヘッドシュタインズ・ゲートと楽しんできた自分にはがっかりです.次回作に期待したいです.

 

 

P.S

余談ですが,この感想を書く前に何件かレビューを見たのですが酷いものが多すぎる.

「愛理が何を喋っているか分からない」,「愛理ルートは難しい話が多いから飛ばした」「終盤の君島レポートの説明が分からないから飛ばした」みたいなコメントが多々見られました.ちゃんとテキスト読んでもないのに「内容ムズくていつまらないから☆1」みたいな感想書くなら,お前もう書くの止めろよ...

 

 

 

 

 

何でもかんでも「日常系」とか使ってる奴なんなん?

 ブログの閲覧数稼ぎたさの余り釣りっぽいタイトルにしてしました。

 

 今回は、「日常系」というジャンルにまつわる1つの疑問について書きます。

 皆さん「日常系」というジャンル分けをどのように使っていますか?

 

 試しに「日常系」というワードでググってみると、空気系というwikipediaのエントリとNAVERまとめ、ついでニコニコ百科がヒットします。筆者の個人的見解ですが、こういうアニメ・漫画関係のキーワードはwikipediaよりニコニコ百科の方が強い気がします。というわけで、ニコニコ百科を眺めてみると、

 

 一言で説明すると「劇的なストーリー展開を極排除した、登場人物達が送るゆったりとした日常を淡々と描写するもの」。

 

なんて解説が出てきます。つまり日常系であるためには、ストーリー展開があってはならないということらしいです。因みにNAVERまとめの方で日常系作品を見てみると、

けいおん!』、『ひだまりスケッチ』、『みなみけ』、『らき☆すた』、『ゆるゆり』など、4コマ漫画原作の作品がほとんどです。

 

 となると、現在放送中のアニメだと、『ご注文はうさぎですか?』、『犬神さんと猫山さん』あたりが「日常系」としてジャンル分けされると思われます。

 

 今回私が抱いた疑問とは、「日常系」というジャンル分けは果たして有効か?ということです。

 アニメ批評では「日常系アニメの現在」とか「日常系アニメから見る〜」など日常系アニメをフックにした批評をしばしば見かけます。そういう批評の中には、例の東某や宇野某の議論を持ち出してきて、大きな物語の喪失から小さな物語への以降、そしてその延長線上としての「日常系」、日常讃歌、なんて話が出てきます。

 ここで行われている議論の前提は、「日常系」とはニコニコ百科にあるように「ストーリーが存在しない、登場人物たちの会話を楽しむもの」であるという認識です。

 私がここで言う「有効か?」という言葉の意味は、このような前提が有効かということです。即ち、いわゆる日常系と呼ばれている作品の中にも「登場人物たちの会話を楽しむもの」以外の作品が存在していたとしたら、その作品を「日常系」として論じるのは議論として正当でないばかりか、その作品を正しく理解しないことにも繋がります。

 

 そこで、今回は「日常系」というジャンルを再定義すると共に、幾つかの作品をサンプルとして「日常系」というジャンルが妥当か検証します。

 

 上述したように、日常系として挙げられている作品の原作はほぼ全て4コマ漫画です。その中でも、芳文社まんがタイムきららは4コマ漫画のアニメ化に力を入れており、代表作『けいおん!』を始めとして、『ゆゆ式』、『ご注文はうさぎですか?』など継続的にアニメ化を行っています。

 芳文社の沿革を調べてみると、芳文社が4コマ漫画へとシフトするきっかけについてこのように書かれています。

 

「週刊漫画 TIMES」に次ぐ新企画の開発が喫緊の課題となった1980(昭和55)年、「漫画パンチ」連載の植田まさしの4コマまんが「のんき君」の人気に着目した孝壽芳春は、ギャグ漫画を中心に据えた雑誌の開発を指示。1981(昭和56)年、「時代は笑いを主軸にした漫画誌を求めている」という読者ニーズを先取りした我が国初の家庭4コマまんが誌「まんがタイム」を創刊し4コマブームを巻き起こす。

 

 当時の芳文社は、ギャグ漫画に力を入れるため「まんがタイム」を創刊したようです。そしてその後進となるまんがタイムきらら創刊のきっかけについてはこのように述べています。

 

 パソコンや携帯電話の普及等により、従来の読書スタイルが大きく変貌し、出版業界全体の売上が減少を続ける中、購買力のあるいわゆる“オタク”層の取り込みを狙い、2003年に“萌え”系4コマ誌「まんがタイムきらら」を創刊。その後、姉妹誌「まんがタイムきららMAX」、「まんがタイムきららキャラット」、ストーリー主体の「まんがタイムきららフォワード」を発刊。萌え系4コマの世界で確乎たる地位を築く。

 

 この文章から、芳文社は「笑い」を中心とした4コマ漫画の創刊を経て、オタク層のニーズに対応するために美少女を主軸とした4コマ漫画を創刊したと言えます。ここから、芳文社まんがタイムきららは、美少女が中心人物となり「笑い」を志向した作品づくりを行っていると考えられます。

 

 まんがタイムきらら原作のアニメの多くがが「日常系」として扱われているなら、それらの作品も原作と同様の特徴を備えているはずです。即ち、現在日常系作品として扱われている作品の共通項として「笑い」を指向する傾向があるということです。この傾向があることの傍証として、先に引用したNAVERまとめがあります。先のNAVERまとめでは、日常系の面白さの1つとして「ギャグ度」という指標を挙げています。このことから、日常系アニメにおいてもギャグが重視していることが伺えます。芳文社以外の出版、一迅社などの作品も同様の傾向を備えていることは論証するまでもないでしょう。

 

 日常系アニメがギャグを指向する理由は、上に挙げた「4コマ漫画」の由来という側面以外にもあるように思えます。そしてそれは、「日常系」という呼称と密接に関わっています。

 人がアニメに限らずある作品に期待するものは様々です。ある作品には感動を、ある作品には勇気を、ある作品には恐怖を期待します。そのような「快」の中でも日常的に見られるのが「笑い」です。「笑い」はドラマや映画に限らず、バラエティ作品でも笑いは見られます。それに引き換え映画では、手の込んだ設定やストーリーから「感動」や「恐怖」といって快を引き出す作品が多いように思います。「笑い」の優れている点は、そのような手の込んだ設定が無くても引き出せるところです。逆に「感動」を引き出すためには、登場人物たちの「努力」や「成長」といったストーリーが必要となります。

 このように「笑い」は「努力」や「成長」なしに、言い換えれば、キャラクターの成長のない「繰り返し」の中でも快を引き出すことができるのです。繰り返しとは、即ち日常の謂いです。つまり、日常系アニメがギャグを指向する理由は、「笑い」という快は「繰り返し」の中でも引き出せるという点にもあるのです。

 

 これらの考察から、「日常系」を定義するための幾つかの特質が見えてきたように思います。1つは「笑い」があること、これは日常系アニメの原作が「4コマ漫画」であるという点から導かれた特質です。もう1つは美少女であること、これは日常系作品が「萌え」から出発したというまんがタイムきらら創刊の由来から導かれます。もう一つは「繰り返し」であること。これは、「笑い」という快を引き出すための装置から導かれた特質です。

 

 ここで、この2つの特質を以って「日常系」を再定義したいと思います。即ち「笑いと美少女と繰り返しを主軸とした」作品、です。

 

 この定義によっても、現存する多くの日常系作品を語ることができることが分かります。例えば『ご注文はうさぎですか?』。この作品はおよそ「日常」という名に似つかわしくない軍隊出身系のツインテールやしゃべるうさぎ、どこの文化圏かも怪しい美少女が出てきたりしますが、上の定義に照らし合わせれば立派な「日常系」です。他の『みなみけ』や『ゆるゆり』などもこの定義で語ることができます。

 

 そしてこの定義から導けるのは、決して「日常系」というアニメから「小さな物語」や「小さな世界における日常讃歌」なんている壮大な考察は論じることができないという事実です。「日常系アニメ」にあるのは、ただの美少女と笑いです。そこには、「現実の日常」への接続点は存在しえません。あるのは作品内世界における繰り返しです。たとえそこで日常への讃歌があったとしても、私たちの世界がその讃歌を歌い直すことは決してできないのです。

 

 

 ところで、この日常系の定義に当てはまらない作品が幾つかあります。それがアニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』です。これらの作品は多少の笑いはありますが、それよりも女の子同士のハートフルな交流や成長、そして「感動」が描かれます。先にも述べたように、「感動」を描くためには成長が必要です。この2つの作品は共通して3年生達が卒業します。それは、この2つの作品がギャグではなく「感動」を主軸として作品を生み出そうとしたことの必然です。これらの作品の登場人物は…唯は、あずにゃんは、ゆのっちは、成長します。小さな高校の小さな軽音部であったり、小さな学生寮であったりしても、そのまさしく「日常」とも言うべき日々を過ごすことによって彼女たちは成長するのです。私たちはそんな彼女たちを観て、癒され、「明日に向けて頑張ろう」という活力を得ます。

 

 面白いことに、このような「日常における成長を描いた作品」が「日常系」の定義から外れるということです。勿論、私が今回再定義した「日常系」は恣意的なものですが、アニメ版『けいおん!』が原作版『けいおん!』と異なるという議論は今まで散々議論されてきた1点を取ってみても、この2つの作品を異なるものとして認識する向きが強いということを裏付けています。

 

 私が考えるに、アニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』は『ご注文はうさぎですか?』などの作品と異なり、どちらかと言うと『ARIA』に近い構造ではないかと考えています。

 『ARIA』で語られるのは、日常における「美しさ」の再発見です。主人公である灯里はネオ・ヴェネツィアにおける生活の中で、様々な生き物の、自然の、人の美しさを再発見し、そして成長します。この「美しさの再発見」はそのまま現実にインポートすることが可能です。だから、ARIAは「日常系アニメ」よりも我々の世界に接続していると言えます。

 しかしながら、ARIAは「日常系アニメ」として扱われることがありません。それは、私が定義したように、日常系アニメは笑いと繰り返しを必要としており、決して成長を必要とするものではないからです。

 その意味で、アニメ版『けいおん!』と『ひだまりスケッチ』は『ARIA』と同じ構造であると考えます。

 

 さて、ここまで「日常系」作品に対する疑問から発し、「日常系」の再定義、そして作品比較を行ってきました。ここでわかったのは、「日常系」が「笑いと美少女と繰り返し」を指向しており、決して「小さな物語」、「日常讃歌」といったメッセージ性を導き出せるものではないというものでした。そして、むしろ「日常系」として定義できない作品にこそ、現実と接続するメッセージ性―成長や友情、日常の美しさ―が織り込まれていることを確認しました。

 だから、私は今一度こう言います。「何でもかんでも「日常系」って使ってる奴なんなん?」