とりあえずかけそば一丁

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フローベール『感情教育』感想,もしくはSF的美少女への愛

今日は,@kbtysk33さん主催のフローベール『感情教育』の読書会に参加しました!
私も含め参加者は5人だったのですが,発表者である@danse_des_oursさんの考察,分析が素晴らしく感動しました〜.@danse_des_oursさんはまだ学部生(修士2年生とのことです,danse_des_oursさんすいませんm(_ _)m 2012/07/09 1:33追記)ということが幅広い知見をお持ちで,違う学問分野ではありますが,探求の姿勢は見習わなければならないと深く反省した次第です(-_-;)

というわけで,本日はタイトルの通り『感情教育』の感想を綴ってみます.
私は理工学部生ということもありフランス文学,及び文学史には疎いので,今までの自分の映像体験や読書体験と照らしあわせてとりとめもなく感想をまとめようと思います.

『感情教育』は青年フレデリックが首都であるパリと地方ル・アーヴル(ノジャンでした)でアルヌー夫人を始めとする様々な夢を夢想し,そして挫折していく「青春小説」です.(と私は考えています)

この作品中で,フレデリックは3人の女性と恋に落ちます,それがアルヌー夫人,ダンブルーズ夫人,ロザネットです.本当はもう一人ルイズという主要な人物がいますが,フレデリックが直接的な関係を持つに至りません(といってもちゃっかり結婚の約束とかするのですが.

高砂伸邦は『フローベールの自伝系列作品等にみるフェティシスムの影』の中で,この3人との恋愛について次のように述べています.

「繊細で”醒めて夢みる人”フレデリックが追い求める3つの愛,ロザネットを対象とした”肉のための愛”,ダンブルーズ夫人を対象とした”社会的野心のための愛”,そしてアルヌー夫人を対象とした”愛のための愛”において前2者は破綻を来たし,後者は結実しないまま終わるが,その寿命は,彼が当の女性にいだく夢想の強さに準じるかたちになっている.(中略)一方,フレデリックが”感謝の心のほとばしりに似た無言の歓喜”,”ほかのことは忘れきるほどの無我の境”,さらに”宗教的な畏怖”さえも感じるアルヌー夫人との関係においては,夢想が絶対的優位をしめる(強調筆者)」

ここで高砂が言うように,ダンブルーズ夫人やロザネットへの愛は即物的な愛と言ってもよく,肉欲だったり,社会的名誉だったりを満たすための道具であります.それに対して,アルヌー夫人への愛は,情欲もありますがプラトニックなものに終始します.
また,ダンブルーズ夫人やロザネットはフレデリックの視点による「身体の描写」が多いのに対し,アルヌー夫人に対しては「夢想の想起」が圧倒的に多いです.
このことについて高砂は「夫人の本体を追い出した”人間の境地”の跡地に,彼は夫人の代替品つまりフェティッシュを据えるのである」と述べている.
この意見に対して私は,フレデリックにとってのアルヌー夫人はフェティッシュよりもアニメ,マンガの文脈で言う「美少女」なのではないかと考えます.
というよりも,フレデリックに感情移入した「私」が体験するアルヌー夫人が「美少女」である,という方が正しいかもしれません.
フレデリック(もしくは私)はアルヌー夫人と決して結ばれることが出来ないからこそ,彼女の痕跡に執着し(アルヌー家の家具が競売にかけられるシーン),夢想を繰り返し,神格化するのだと思います.

ここで注目したいのが,この小説のラストでフレデリックがアルヌー夫人と邂逅を果たすシーンです.
このシーンでのアルヌー夫人は白髪を湛えており,最早フレデリックが恋焦がれた女性ではありません.そこでフレデリックはその幻滅を隠すため,過去の彼女への賛辞を述べながら,「自分で自分の言葉に酔い,いっていることを信じこむ」のです.
そして別れ際,アルヌー夫人はフレデリックに,自分の白い髪を一束手渡し,「とっておいてくださいな.さよなら!」と去ります.

このシーンではフレデリックにとってその瞬間まで理想の美であったアルヌー夫人が年老いていたことに対する幻滅とそれを感じまいと必死に努力する彼が描かれています.つまり,フレデリック(私)は「美少女の喪失」を経験したのです.これがこの小説におけるカタルシスなのではないでしょうか?

ところで,「美少女の喪失」というモチーフはSF的な美少女を彷彿とさせます.
なぜならSFにおける恋愛では,しばしばこのようなモチーフが援用されるように思うからです.例えば「恋していた女性が実はアンドロイドだった」「愛する異性とウラシマ効果によって隔てられる」などがそれです.
もちろん,一般の小説でも愛する女性が急に失われるなんていうのはザラですが(それこそケータイ小説なんかちょっとした殺人事件のごとく恋人が死ぬので),「時間的,空間的な断絶」や「イデアの崩壊,喪失」というものを描く上でSFよりも最適なジャンルは考えられません.(少なくとも僕の中では

なぜ急にSFの話になったといいますと,この『感情教育』のラストシーンを読んで私が想起したのが『イリヤの空、UFOの夏』(以下イリヤ)だったからです.それは『イリヤ』にも『美少女の喪失』と『白い髪』という2つの記号が含まれるからだと思われます.

『イリヤ』においては,『美少女の喪失』は2度描かれます.一つは「身体の崩壊」による喪失,もう一つは文字通り「存在の喪失」です.「身体の崩壊」による喪失とは,伊里野が浅羽との逃避行において,精神的に退行し,身体的にも著しい不調をきたすからです.ここで重要なのは,伊里野が「白髪化していること」と一夜の内に「崩壊」することです.また,次の「存在の喪失」は伊里野が敵との戦闘のため浅羽を置いて旅立つことによって発生します.
小説中においては浅羽が「美少女の喪失」を意識する描写はありませんが,壊れた少女を必死に介護する浅羽と,理想を保とうとするフレデリックはどことなく被って見えないでしょうか?(私だけですよね...

まとめると,私が『イリヤの空、UFOの夏』大好きだということですね!(身も蓋もない

原田さんのツイートから生活保護を考える

さて,久しぶりのブログ更新です.本日は生活保護について倫理的な観点から考えてみたいと思います.

というのも,声優の原田ひとみさんからこんなツイートが上がったからです.
https://twitter.com/vhitomin/status/219755561443536897

生活保護って、障害で働けなかったりシングルマザーで子供もいて働かなきゃいけなくてとか、誰からも援助を得られない方には絶対的にあるべきだと思うけど、その他の人にも必要なん(´・ω・`)? 日本って、アルバイトでも十分食べていけるよね(´・ω・`)

私も私的な事情により生活保護については考えるところがあったのですが,それにしてもこのツイートは目から鱗が落ちる思いでした.というのも,一般的な人の感覚を如実に表していると感じたからです.

今まで生活保護はその制度や不公平感,財政的な問題などがいっしょくたに語られてきたので複雑な様相を呈していましたが,問題を倫理的な観点のみに絞った場合,果たして我々はどこまで許容出来るのでしょうか?今回はこの問題について考えてみたいと思います.

1.生活保護は恥か?
生活保護日本国憲法の「最低限文化的な〜(ここらへんはテキトーに調べてもらえると幸いです)」という文を根拠に成立した法律であり,その意味では国家のシステムの一つと考えられます.それを考えると,「生活保護を受ける」という行為は国民全員が等しく有する権利であるので取り立てて「恥」と考えるべき問題ではないと思われます.ところが,国民全員とは言わないまでも多くの人々が「働くより生活保護のほうが楽で良い」と考えると国の運用という観点からは大問題です.この線引きが重要になってきます.つまり,国の運用という観点では生活保護は財政を圧迫するので減らしたいが,国民の権利であるのでそれを侵害することは出来ない,ということになるわけです.
そこで生まれたのが「生活保護は恥」という言説ではないかと思われます.生活保護は恥という言説は「生活保護は自分の金で食べることができない人々が国民の税金で生活させてもらっているので,これは恥である」というようなものです.これは庶民感情として十分納得できる論理ではないかと思います.「人様に迷惑をかけて生きているのだから恥である」のです.しかし,先程も述べられたように生活保護はシステムの一部であり国の予算を充てて運用しているものであるので「人様のお金」という見方は妥当ではないと思われます.ここを正しく捉えないと「公務員は国民の税金で暮らしているのだから〜」というよくわからない言説が生まれることになるわけです.要するに,生活保護は国のシステムなのだから,我々の批判の対象は生活保護受給者よりも国のシステム管理能力に批判の目を向けなければならないわけです.
まとめると,生活保護受給者に対する批判ではなく生活保護を運用する国に対する批判が正当であるということです.

2.生活保護は誰のためのものか?
生活保護の考え方をまとめたところで本題に移ります.今回のテーマは上のツイートにあるように「生活保護は誰のためのものか?」というものです.
原田さんの問題意識は「生活保護を運用するための費用には国の予算が充てられている.これは国民の税金である.なので,生活保護者に対する不正受給や,働けるのに働かないで生活保護を受けている人は不当である.よって制度を改正する必要がある」というものです.(と僕は解釈しました.
上述したように,生活保護に批判を向ける場合国,制度そのものを批判の対象とすべきであると考えるのでこの意見は妥当であると思います.また,上のツイートからも分かるように,生活保護のネックは「他人の金で生活する」というところにあるということが分かります.
そして,この次の原田さんのツイートが以下のものです.
https://twitter.com/vhitomin/status/219757200736919552


え、それは別にいいと思いますよ(笑)。何ら問題はないのではー。ただ、働けてゆとりもある程度はある筈なのに生活保護を受ける人が多いのは、国の制度がどうなのって思うだけです; RT @wolf_ako:親の脛かじりまくってる自宅警備員でごめんなさい・・・(´・ω・`)

ここで原田さんは「親の脛をかじる」ことについては「別にいい」と仰っています.「親の脛をかじる」という行為は「他人の金で生活する」ことの一つの形態でありますが,この違いはどこから来るのでしょう?

「親の脛をかじる」にも色いろあると思いますが,年齢別で考えるのがわかりやすいと思います.当然ながら20歳以下は基本的には「親の脛をかじる」という言説が適当でないくらい.扶養されて当然というのが多くの人の感覚だと思います.これは大学に通う場合とそうでない場合とでまた変わってくるのですが...大学に通っている場合は卒業まで養ってもらうのはある意味当然といって差し支えないと思われます.

問題なのは教育機関を卒業した後です.高卒の場合18〜.大卒だと22〜となりますが,この人が定職につかずに「親の脛をかじる」のは倫理的に問題がある行為でしょうか?

おそらく昨今の就職難の事情もあるので卒業から数年については「定職につけず親の脛をかじっている状態」に問題があるとおもわれる方は少ないのではないでしょうか?実際バイトしつつ,就活しつつ親と同居というパターンが結構あると思います.また,就活で鬱になり家で何もできずにいる方もいらっしゃるかもしれません.

但し,この状態を30以上でも続けている場合世間の目はかなり冷たくなるのではないでしょうか?それとも,「別に人様に迷惑をかけているわけではないのだからよしとする」のでしょうか?

私個人としては,「働くのが望ましいが,それは本人の自由である」といったところです.このような「親の脛をかじる」癖がついた人は,親がいなくなった後,生活保護を受ける確率が健全な生活を送っている人より高いと考えられるので(すいません,ソースはないです)このような層がいることはリスクがあると言えます.




逆に生活保護の場合,若年層で働けるときは批判の対象になりやすいですが,高齢になるにつれてその批判の度合は薄れていくと思います.(結局働けなくなるので
特に,定年を過ぎた方が生活保護を受けることに対する批判というのはあまりないかと思われます.


さて,人々はどのラインで生活保護を妥当だと考えるのでしょうか?
例えば,一人は親がある程度裕福なので,親に養ってもらい30歳になっても定職につかず毎日家でゴロゴロしています.もう一人は親が貧乏なので養ってもらえず,世帯を分けて30歳になった今働ける能力があるにもかかわらず生活保護を受けて毎日家でゴロゴロしています.この二人の違いはなんでしょうか?

やはり,後者は倫理的に許されず,前者は倫理的には問題がないのでしょうか?

または,20代毎日暴飲暴食を繰り返し,30代後半で脳出血を起こし働けなくなった人が生活保護を受けることになったとしたらこれは許容できることでしょうか?

もっと卑近な例では,生活保護受給者がパチンコを行うことは許されるのでしょうか?飲酒は?タバコは?生活保護受給者は普通に働いている人より裕福な暮らしをしてはならないのでしょうか?

最初に提示した問題では,私は倫理的なレベルではどちらも問題があると思います.「働ける能力があるのに行使しない」という道徳的な罪です.但し,実際問題としてははやはり法的,政治的,経済的な観点から後者のほうが罪が重いと考えられるわけです.

次に提示した問題では,働けない者は「どのような事情で働けなくなったにしろ」生活保護を受けることが許されるかというものです.上の状況ではある意味働けなくなったのは自業自得とも言えます.それでも生活保護を受けることは倫理的に問題がないのでしょうか?

私にはこれに見合う答えを用意することができません.それには,そもそもこのような問題があまり論じられて来なかったことが背景の一つにあるように思われます.

最後の問題は,生活保護の「不公平感」に関する問題です.国民の税金で暮らしている人は貧しい生活を慎ましく送る必要があるか?という問題です.

このように,生活保護については倫理的なレベルでまだまだ考えられるべき点が数多くあるように思います.制度改正は倫理的なベースが定まってからでも遅くはないと思います.

『宇宙をかける少女』論

昨日の論考では、「宇宙をかける少女」について物語の文脈に沿って考察しました。

本日は、作品『宇宙をかける少女』の特殊性に焦点を当てて論じてみたいと思います。

宇宙をかける少女』で特徴的なのは、主人公である秋葉が「成長しない」ということであると考えます。所謂「ビルディングスロマン」と呼ばれる作品群、特に少年漫画に多いですが、これらの作品は、「作品を通して主人公が成長すること」に眼目をおいています。つまり、主人公の成長を通して「努力、仲間」といったものの大切さを伝えることが主眼となっています。これは、少年漫画に限らず、多くの作品に共通して見られます。

ところが、『宇宙をかける少女』において、「主人公の成長」を取り上げるシーンはほぼ皆無と言えるでしょう。唯一と言えるのが、レオパルドを励ますシーンと、最終話近辺で秋葉がレオパルドを討つことを決意するシーンです。しかし、これらのシーンにおいても、秋葉の明確な成長は語られておらず、あやふやなまま物語は進行します。レオパルドを討つことを決意するシーンでは、秋葉が決意する場面が象徴的に描かれていますが、特に秋葉に内面的な変化をきたす描写はありません。(「気づき」はありますが)

このように、主人公の成長を描かない理由としては、「秋葉が運命的に『鍵』としての役割を担っている」ということが挙げられます。

ビルディングスロマンでは、主人公の特異性というのは表立って描写されることはありません。(もちろん、主人公がある種の「異能」の持ち主であることは隠しませんが)それは、ひとえに「読者が感情移入出来る主人公であるため」ということに尽きるでしょう。主人公は、天才的な才をもちつつも、読者に寄り添った存在であらなければならないのです。
本論においては脱線となりますが、それと同時に「思いの強さ」というのも少年漫画(あるいは少女漫画)においては重要なファクターとなります。

秋葉はそれに対して、物語序盤から「運命」が明示されている存在であります。この作品の主眼は、そのように「運命づけられた運命」に対してどう立ち向かうかにあります。

このような状況にあったとき、よく取られる行動としては、「その運命から逃げる」ということです。そして次にあるのが「運命に抗う」ということであります。

さて、では秋葉はどのような存在なのか?

昨日も述べましたが、秋葉は主人公のキャラクターとしては極めてニュートラルと言えます。何がニュートラルかというと、「家柄としては立派な財団」であるが、「主人公自身には特殊な力はない(自覚していない)」ということです。このように、属性(家柄などの要素の集合)としては強力だが、個人で見ると弱いというのは、比較的感情移入しやすいキャラクターと言えるでしょう。また、劣等感を抱えているとうのも感情移入しやすいポイントです。(視聴者の年齢層を考えるとコンプレックスを抱えているのがむしろ普通であるから)

特筆すべきなのはむしろここからで、上述したように一般的なドラマでは「運命的から逃げる」「運命に抗う」といった物語が展開させるのですが、『宇宙をかける少女』にはそれがない。むしろ、描かれるのは「運命に対して無自覚な自己」なのです。

秋葉は25話まで、「宇宙をかける少女」とは何か?そして己とは何か?を問い続けます。それに対する秋葉の望む解答は得られませんが、秋葉は結局レオパルドを討つことを決意します。しかし、この決意も、秋葉が25話の物語の経過の上に成り立った決意とは言いがたい部分があります。秋葉は妹子の利他的な精神に気づき、それに感化されるという描写なのですが、それが果たして25話間の旅に基づくものかと言うとそうとは言えないでしょう。

つまり、秋葉は「なんとなく」自己の道を追いつづけ、「なんとなく」自己の役割を認識し、「なんとなく」世界を救う戦いに出るという、ビルディングスロマンとはかけ離れた存在であると言えます。

この「なんとなく」は秋葉だけでなく、作品全体に通底している流れと言えます。例えば、神楽が偶然寝返り、ナミに説教しに行ったように。

結論すると、秋葉は「宇宙をかける少女」という運命を受け入れる存在です。但し「なんとなく」。それは「自己実現」という主体的な目的から目を逸らすことになります。しかし、運命からは抗えない。皮肉的に言うと、社会的圧力によって運命を受け入れることを強いられつとも言えるでしょう(これの典型が風音、その逆がナミ)

宇宙をかける少女』は結局、「運命(全能性)」希求しながら「運命」に無自覚であること、それが「自由意志」全うすることではないかというテーゼを提示しているのではないでしょうか。形而上学としての「決定論」と「自由意志」の対立ではなく、事実問題として「運命」に巻き込まれたとき人はどう生きるべきか。その答えとしての「運命への無自覚」…






人は時として、社会からの圧力や責任感に飲まれて、自分を見失うこtがあります。そんなとき、自己をどう再発見するか?『宇宙をかける少女』とは文字通り「宇宙(想定されている世界としての宇宙)を自由に駆ける少女」ではないでしょうか?

「宇宙をかける少女」とはなんだったのか

今回は『宇宙をかける少女』より、「宇宙をかける少女」について考察してみようと思います。


本論に入る前に、作品の外縁的な部分について触れておこうと思います。


宇宙をかける少女』は2009年に地上波で放映されたアニメです。監督:小原正和、アニメ制作;サンライズ舞-HIMEスタッフによる作品です。

主人公の獅子堂秋葉がある日ブレイン・コロニーであるレオパルドと出会うことから、様々な事件に巻き込まれるというドタバタSFアニメという感じです。



さて、ここからいよいよ本論である「宇宙をかける少女」の考察に入っていきます。

宇宙をかける少女」というワードは作中何度も登場するキーワードで秋葉とナミを指して呼称されますが、その意味が直接的に語られるのは第25話においてです。
 
   秋葉「大体なんなのよ、宇宙をかける少女って!」
   神楽「イグジステンズのクイーンにして黄金銃を持つ乙女、ブレイン・コロニーとの戦いに終止符を打つ、それが宇宙をかける少女
   ―宇宙をかける少女 第25話より

この文章から読み取れるのは、「宇宙をかける少女」が「力」の持ち主であり、戦いにおける重要な「鍵」だということです。しかし、この直接的な言及のみでは、このキーワードの作中に通底する深層的な意味を読み取ることは出来ません。
そこで、「宇宙をかける少女」が指す対象、すなわち獅子堂秋葉について考察することで、「宇宙をかける少女」について考えてみたいと思います。

獅子堂秋葉は巨大な財団である獅子堂家の三女です。他の姉妹が、各々の特性を生かした道を歩んでいるのに対し、何の取り柄もないことからコンプレックスをいだき、自分にしか出来ないことを追い求めています。
このことが、如実に表れているのが第1話の次のシーンです。
 
   秋葉「他人を巻き込むな、このバカ!私はね、将来の夢もないし、何をやればいいかも分からない。けどね、死にたくはないの!探したいの、自分がやりたいことを!自分にしか出来ないことを!」
   ―宇宙をかける少女 第1話より

この秋葉のパーソナリティが「宇宙をかける少女」にかかわりがあるという示唆が第2話で見られます。
  
   神楽「なるほど、彼(レオパルド)が気に入るわけね。夢もなくやりたいこともない。何も無い、可哀想な子。」
   秋葉「ずいぶんはっきり言いますねぇ。誰ですか、あなた?」
   神楽「だから、誰よりも走ることが出来る。どこへも向かっていないあなたは、ずっと立ち止まっていた。体には力が溢れていて、どこにだって駆けていける…違う?」
   秋葉「う〜ん…あの〜、何のことやら?」
   神楽「楽しみだわ、わくわくする…宇宙をかける少女
   ―宇宙をかける少女 第2話より

第2話以降なし崩し的に、秋葉はレオパルドのパーツ探しに協力することになります。そして第4話の事件により、秋葉は一度レオパルドのパーツ探しに協力するのをやめ、ほのかと口論になります。それが、以下のシーンです。


   ほのか「次のパーツは月にある」
   秋葉「やだ…」
   ほのか「なぜ?」
   秋葉「もう顔もみたくない、あいつの…」
   ほのか「そんなに怒ることはない」
   秋葉「怒るに決まってるでしょ!」
   ほのか「あたしは、裸にされても平気」
   秋葉「わたしは平気じゃないの!」
   ほのか「秋葉がいないとレオパルドが困る」
   秋葉「なんで…あいつが?」
   ほのか「レオパルドが秋葉を選んだから」
   秋葉「なんで…なんであたしなの?あたしに…なにがある        の?」
   ほのか「運命を信じて」
   ―宇宙をかける少女 第5話より

ここで、秋葉が「宇宙をかける少女」として選ばれたのは運命であるとほのかは述べています。

さて、日常に戻った秋葉はベッドの上で次のように振り返ります。

   秋葉「ベッドで寝るの久しぶり〜。ホント…久しぶり」
     「やることないって…こんなに退屈だったんだ…」
   ―宇宙をかける少女 第5話より

この後、いつきに寝こみを襲われたことから、秋葉は再びレオパルドに戻ることを決意します。それは、自分にしか出来ないことを求めるためです。

ここまでの、シーンから、秋葉は運命的に「宇宙をかける少女」としての素質をもっており、但し本人にその自覚はないということがわかります。
そして、始めは、レオパルドに求められていやいや駆けていた宇宙は、そのうち彼女自身の自己実現の旅に変わっていくのです。


作品中では明確に語られていませんが、秋葉とレオパルドに共通するキーワードは「自己実現」であると考えられます。「自己実現」を求めるレオパルドが同じく「宇宙を駆ける」ことを求める秋葉に惹かれて「宇宙をかける少女」を彼女に見出したのでしょう。

しかし、それはあくまで秋葉に運命づけられたものです。ネルヴァルと戦う宿命にある獅子堂家の三女としての役割なのです。その点で、秋葉の「自己実現」は本人にとっては自由意志であるかのように見えながら極めて決定論的であると言えます。



ここまで「宇宙をかける少女」の意味について振り返ってきました。次回は、作品『宇宙をかける少女』は何を語りたかったのかについて考えてみたいと思います。

エロアニメ日々雑記

はてなダイアリーからこちらに仮移行してみました。使いづらければダイアリーに戻そうという腹積もりです。

今回、ご紹介するのは、「euphoria〜真中合歓 地獄始動編〜」と「えろげーびしょ濡れ!?美少女くりえーたーず編」の2本です。

euphoriaはPoRO、えろげー!はcollaboration worksの作品となっています。

この2作品の特徴は、キャラのセリフにあります。どちらも陵辱ものではないのですが、プレイ中の女の子のセリフがとにかくエロイです。

えろげー!に限って言えば、「アヘ顔」もポイントの一つです。本編中に4回ほどプレイシーンがありますが、その全てでアヘ顔を拝むことが出来ます。一応純愛のはずですが…

現状、エロアニメの製作で言えばPoRO、L.が2強でこれらの作品ならはずれはないでしょう。次いで鈴木みら乃あたりでしょう。いずれにしろ、エロアニメは製作ごとに特色が強くでるので、どれか適当に見て気に入ればその会社の作品は概ね気にいるはずです。

最近思うのは、絵とかキャラの可愛さももちろん大事ですが、どういうシチュエーションでプレイするかというのが大きなポイントだと思います。これはアニメに限らずですが。

近年NTRに焦点が当てられ、ほとんどのパターンは出切ってしまった感があります。これからは、NTRを一歩進めてビッチな女の子が流行るのではないでしょうか。上の2作品もうまい具合に「ビッチ化」してくれています。

後は、画期的なNTRシチュエーションでしょうか。最近ですとエレクトさわる先生の作品がシチュエーションに凝ってて面白いです。または、あるちゅ先生の作品のようにNTRと純愛とビッチの狭間を行くようなスタイルが今後増えるかもしれません。

けいおん!!の空気を読む

実は完走していないけいおん!!、最近15話(マラソン大会の話)あたりから見始めたのですが、以前は感じなかった感覚に陥ったのでまとめておこうと思います。

けいおん!!を見てて思ったのが、「他の日常系とは空気が違う」ということ。
日常系のアニメを自分の中で定義しきれていないのですが、ここでは「会話劇を主体とした、ファンタジー要素を排した物語」というようなもので大雑把にまとめておきます。

具体例をあげると「Aチャンネル」「ひだまりスケッチ」「ゆるゆり」「GA」「たまゆら」「スケッチブック」あたりになるでしょうか。芳文社原作の作品が多いですね。

まんがタイムコミックスでは、他にも「ゆゆ式」など、アニメ化はされていませんが日常系に該当するジャンルの作品が多い印象を受けます。

個人的には「たまゆら」にはファンタジー要素を感じるので日常系ではないと考えますが、他者様のブログなどを拝見すると日常系にジャンル分けしているようなのでそれにならいました。

さて、ここまで日常系の定義について述べてきましたが、ここからは「けいおん!!」が他の作品とどう違うかについて考えたいと思います。

Aチャンネル」が典型的だと思うのですが、日常系の作品は登場人物たちの立ち位置がしっかりしています。例えば、るんちゃんがボケ、トオルがツッコミ、ユー子がいじれられ、ナギがまとめ役という感じです。

このように日常系でキャラの立ち位置がしっかりしているのは、物語にオチを付けやすくするためであると考えられます。
日常系作品の多くは4コマ出発の作品なので、アニメ中で深い心情の描写は向いていません(多分に例外はありますが)
それよりも、些細な事件やノリの良い会話劇などを通して、登場人物同士の馴れ合いを描写するほうが向いていますし、それが基本となります。

それに対して「けいおん!!」では他の作品とは違ったアプローチをとっています。確かに「けいおん!!」でも、上に述べたような特徴はほぼ備えていると言ってよいでしょう。特に、唯、澪、律、紬の4人は立ち位置がかなり強固に固定されたキャラです。「けいおん!」(1期)ではこの4人の会話劇を中心に成り立っていた面が強いです。それに対して「けいおん!!」では梓の存在感が徐々に増して来ます。実際に彼女目線で語られる話数もあります。(16話など)
2期では顕著なのですが梓は他の4人と比べるとキャラに一貫性がありません。(1期では真面目な後輩という立ち位置でした)16話ではそのことを彼女が自覚し改善を図りますが、結局徒労に終わります。

このことから何が言えるのかといいますと、「立ち位置の決まったキャラクター」が主体である日常系において「梓」という異質が混じることにより奇妙な空気感を演出しているのです。人物間のエネルギー準位が不安定になるということです。ですから、「けいおん!!」の後半では、梓が自分のアイデンティティをどのように回復させるか、自分の立ち位置をどこにみつけるかが物語の一つのテーマとなるのです。これは他の日常系作品にはないリアルさを作品に与えているのではないでしょうか?

さらに、「けいおん!!」では「会話そのものの面白さ」よりも「会話に漂う空気感」を重視しているように思えます。敢えて会話劇の内容を弱くして、キャラクターの表情、動きといったもので魅せるということにこだわっているように感じます。

これらを総括すると、他の「日常系」作品が「日常」という欺瞞を演じているのに対して、「けいおん!!」では「日常」を「日常らしく魅せる」ことに中心を置いているため、他の作品とは違った感覚を視聴者に与えていると言えると思います。
(これに対するアンチテーゼとして「日常」を考えることが出来ると思います)

鬼父Re-born 旅情編を真面目に推す

新年早速ですが、エロアニメの批評です。
以前から愛用?しているPoROさんから鬼父の新作がやっと発売されました。

今作は以前の外伝の続き物となっており、愛莉ちゃんの好感度がMinから始まる仕様です。
なんで愛莉ちゃんがプンスカしてるかわからないと物語に入り込めないので(それでも抜けますが)未見の方は前作を一通り見ておくことをおすすめします。

内容の詳細に入るとピーだらけになり最早ブログの体をなさないので気になったポイントだけあげようと思います。

キャラデザを見れば分かると思いますが愛莉ちゃんはかなりのツンデレ(ツンエロ?)キャラです。その愛莉ちゃんが薬の作用で☓☓になっちゃうのも面白いんですが、今作の見所はズバリ「純愛堕ち」にあると言えるでしょう。

そもそも最初の作品で愛莉ちゃんはいわゆる「エロ堕ち」しているので本来であれば物語上の拡張の余地はないのですが、そこからNTR要素を導入することにより、また「エロ堕ち」前の状態に戻すことに成功していることがポイントの一つです。

この状態から物語がスタートし、父が薬などの手を用いてなんとか愛莉ちゃんを堕としにかかるのですが、ところがどっこいうまくいきません。(途中いいフラグは立つんですがね…)

結局薬を用いて堕とすのだったらこのブログでとりあげるまでもないのですが、今作では愛莉ちゃんが父に対して純愛を求めるというところに大きなポイントのがあります。

エロに限らず今までのツンデレ堕としは基本的に一過性で「一度堕とすと後はラブラブ」というのが基本形(つよきすなどを参照)ですが、この作品では堕ちから回復した後、愛莉ちゃんが父に求愛する形でまた堕ちるという2重堕ちになっているのです。これは、ツンデレの堕ち方として新しいパターンだと思います。

製作者サイドとしては、愛莉ちゃんを使い回すための苦肉の策だったのかもしれませんが、結果として新たなツンデレの攻略法が成立したのです。

ただ残念なのは、物語のオチが「愛莉ちゃんが酒に酔っていて大胆になった」というもの。最後はツンにもどってしまうんですね〜、これはこれでかわいいのですが(オイ

とにかく、筆者はエロに限らず今後、ツンデレの2重落としという技法が世間に深く浸透していくと睨んでいます。なぜなら2重になることによって男性側のマゾヒスティックな面と独占欲の二つが余計に刺激されるからです。

正直ツンデレというキャラ付けは、ネタ切れ感が否めず今後拡張の余地はないと考えていましたが、今作を拝見してその偏見が打破されました。ツンデレの魅力、恐るべしっ!