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美少女のアニメを考える(2)

昨日に引き続き,本日は「美少女の語り」の変化を考えてみようと思います.

昨日の自分のエントリが大分訳わからなくなっているのですが.とりあえず続けてみようと思います.

一応,「語り」についてざっくりと私なりの認識を述べておこうとおもいます.
このエントリで私が想定している「語り」とは,単純な会話やモノローグではなく物語的に重要な場面でのセリフで,そのキャラの感情がこもったものというものです.

美少女の語りの変化を考えるために,まず新美少女アニメ以前の「美少女の語り」について考えてみようと思います.

1.男性主人公ものにおける美少女の語り
男性主人公ものにおけるヒロインの語りは,基本的に「男性主人公(=視聴者)への語り」が基本となっています.
例えば,「ああっ女神さまっ」におけるベルダンディーの役割は,螢一のサポートに尽きます.
ギャルゲものの女性キャラクターも,男性主人公に対して「事件」だったり「安心」をもたらすものです.
エヴァンゲリオン(旧劇)」における女性の語りは主人公に「謎」や「選択」をもたらします.

2.少女漫画ものにおける美少女の語り
少女漫画ものにおける女性主人公の語りは「自分の感情の吐露」であると考えられます.
これは,男性主人公作品の主人公の語りと近いものがあります.但し女性漫画ものの場合,
「女性らしさ」を大きく打ち出す語りになっていることが特徴的です.

3.女児向けアニメにおける美少女の語り
女児向け,男児向け問わず,子供向けアニメの主人公の語りは「道徳的な語り」になりやすい傾向があります.これは,子供向け作品が往々にして教育的な役割を担っていることが大きいです.
例えばプリキュアシリーズでは,悪役に対してプリキュアたちが正義を語り,武力によって成敗するという物語が描かれています.

以上,新美少女アニメ以前の美少女ものについて美少女の語りを例を挙げて述べました.

次に,新美少女アニメにおける美少女の語りを考えています.

美少女アニメにおける語りを考える上でキーワードとなるのが,「ユニセックス」と「日常」です.

昨日述べたように,新美少女アニメにおけるキャラ同士の関係性は「部活的」人間関係の上成り立っており,キャラの世界は「日常」の延長線上にあります.従ってそこで語られる内容もあくまでそれらのコンテクストをバックにした発言になります.
「部活的」「日常」から生まれる語りは「世界」と比べ矮小化されます.なぜなら,ありきたりな「部活」や「日常」からはありきたりな言葉しか紡がれることがなく,多様な思考,感情,イデオロギーから生まれる言葉が不可能になるからです.語りの画一化といってもよいでしょう.

また,女性が「ユニセックス化」することで,彼女たちが語る言葉は男女の区別をジェンダーとして(セックスとしても)無効化したなものとなります.例えば男女がどちらも存在する場で,ある語りを「男が行ったか」,「女が行ったか」は極めて重要です.ところが,「女性(男性)しかいない場で女性(男性)が行う語り」は「女性」が語ることの意味を失わせます.

これら2つを踏まえると,彼女たちの発言は画一化,矮小化された極めて薄っぺらなものとなります.
そして,このように薄っぺらな語りは時として陳腐化して,視聴者の共感を得られにくくなっていると考えられます.

おそらく批判される作品の中には,彼女たちの言葉が陳腐化しており視聴者からの共感を得にくくなっていることが批判される原因の一つになっている場合があると考えます.

これらのことを総括すると,私の考えとしては「新美少女アニメにおける美少女の語りは画一化,矮小化されており,時として視聴者からの共感を得にくくなっている」となります.

もちろん今の私の考察(もとい妄想)はかなり結論ありきですすめられており,客観化されておらず納得行かない点も多々あります.また,新美少女アニメの中にも感動できる作品も多々あり,「視聴者の共感を得られない」なんていう私の杞憂を跳ねのけるような力強さを備えています.

但し,昨今のアニメにおける,「あるアニメにのめり込めるかどうか」を考える上で「世界観のリアリティ」も大事な基準となりますが,それと同時に「キャラの語りのリアリティ」も考える必要があるのではないかと思います.

次回は,具体例として「ガールズ&パンツァー」における美少女たちの語りについて考えてみようと思います.