とりあえずかけそば一丁

アニメとか映画とか気になったものについて

ガールズ&パンツァーの気持ち悪さについて

今日はガールズ&パンツァーを観て思ったことを断片的にですがまとめておこうと思います.

私がガールズ&パンツァーを観て思ったのは一言で言うと「気持ち悪さ」なのですが,この気持ち悪さがどこからやってくるものなのか考えてみました.おそらくこの気持ち悪さは「こんなに私のリアリティから解離した世界なのに,面白いと思えている」ということからきているのではないかと思います.

 

今まで,私のリアリティから乖離した作品って,全くのめり込むことが出来ず2〜3話で切ってしまっていたのです.(SAO,ラグランジェとか...)しかし,このガールズ&パンツァーはリアリティを全く感じることが出来ないのですが,作品として(ある程度ですが)楽しむことが出来,その感覚を気持ち悪いと感じてしまったのだと思います.

 

そこで今回の問題設定は「現実世界から遊離した世界でどこまで感動できるのか」ということです.

 

ガールズ&パンツァーは「戦車道」や「学園艦」が登場してくるといった,世界観が現実とかなりかけ離れている世界観を採用しています.しかも,部活で戦車という兵器を扱い,安全面に全く考慮していないあたり,部活動としても学校競技としてもかなり危険です.(あれですか?柔道必修化への皮肉ですか?)

 

そのようなあやふやな世界設定でも人が感動できるということは,「最早ドラマに世界観は必要ない」ということでしょうか?

 

もしそうだとすると,世界観だったり設定というものは,ある作品を構成する上での歯車となり強調するような「システムの要素」足り得ず,取っ替え引っ替え可能な記号に過ぎなくなります.そこでは記号同士の整合性は無視され,記号の順列組み合わせ的世界が生成されることになります.

  

極端な例では,貧乏女子高生が部活で政党を組織して地方自治,そして貧困に強い世の中を!なんていう話も可能になります.各地方のGDP上昇率で競う全国大会とかね...(面白いかどうかは置いといて)

 

今可能かどうかは分かりませんが,ガールズ&パンツァーという作品が生み出されたことで,今後そのような,記号の順列組み合わせ的世界,物語が加速するのではないかという危惧があります.

 

ところで,そのような順列組み合わせ的世界が可能になったとしても,経済合理性から,面白くない作品は淘汰されます.

 

ガールズ&パンツァーの上手さ,面白さは,あいまいな世界観に対して「徹底した一人称視点と人物描写」だと思います.

キャラ数が多くなると描写が散漫になり,第三者視点,俯瞰を多様しがちになりますが,ガールズ&パンツァーにおいては基本的には主人公であるみほを中心に描かれており,みほから見る世界が描かれていると言えます.(例外はありますが

 

ガールズ&パンツァーが最終話に向けてどのような語りを用意しているか分かりませんが,昨今のアニメを象徴する存在として最後まで注視していこうと思います.

 

 

美少女のアニメを考える(2)

昨日に引き続き,本日は「美少女の語り」の変化を考えてみようと思います.

昨日の自分のエントリが大分訳わからなくなっているのですが.とりあえず続けてみようと思います.

一応,「語り」についてざっくりと私なりの認識を述べておこうとおもいます.
このエントリで私が想定している「語り」とは,単純な会話やモノローグではなく物語的に重要な場面でのセリフで,そのキャラの感情がこもったものというものです.

美少女の語りの変化を考えるために,まず新美少女アニメ以前の「美少女の語り」について考えてみようと思います.

1.男性主人公ものにおける美少女の語り
男性主人公ものにおけるヒロインの語りは,基本的に「男性主人公(=視聴者)への語り」が基本となっています.
例えば,「ああっ女神さまっ」におけるベルダンディーの役割は,螢一のサポートに尽きます.
ギャルゲものの女性キャラクターも,男性主人公に対して「事件」だったり「安心」をもたらすものです.
エヴァンゲリオン(旧劇)」における女性の語りは主人公に「謎」や「選択」をもたらします.

2.少女漫画ものにおける美少女の語り
少女漫画ものにおける女性主人公の語りは「自分の感情の吐露」であると考えられます.
これは,男性主人公作品の主人公の語りと近いものがあります.但し女性漫画ものの場合,
「女性らしさ」を大きく打ち出す語りになっていることが特徴的です.

3.女児向けアニメにおける美少女の語り
女児向け,男児向け問わず,子供向けアニメの主人公の語りは「道徳的な語り」になりやすい傾向があります.これは,子供向け作品が往々にして教育的な役割を担っていることが大きいです.
例えばプリキュアシリーズでは,悪役に対してプリキュアたちが正義を語り,武力によって成敗するという物語が描かれています.

以上,新美少女アニメ以前の美少女ものについて美少女の語りを例を挙げて述べました.

次に,新美少女アニメにおける美少女の語りを考えています.

美少女アニメにおける語りを考える上でキーワードとなるのが,「ユニセックス」と「日常」です.

昨日述べたように,新美少女アニメにおけるキャラ同士の関係性は「部活的」人間関係の上成り立っており,キャラの世界は「日常」の延長線上にあります.従ってそこで語られる内容もあくまでそれらのコンテクストをバックにした発言になります.
「部活的」「日常」から生まれる語りは「世界」と比べ矮小化されます.なぜなら,ありきたりな「部活」や「日常」からはありきたりな言葉しか紡がれることがなく,多様な思考,感情,イデオロギーから生まれる言葉が不可能になるからです.語りの画一化といってもよいでしょう.

また,女性が「ユニセックス化」することで,彼女たちが語る言葉は男女の区別をジェンダーとして(セックスとしても)無効化したなものとなります.例えば男女がどちらも存在する場で,ある語りを「男が行ったか」,「女が行ったか」は極めて重要です.ところが,「女性(男性)しかいない場で女性(男性)が行う語り」は「女性」が語ることの意味を失わせます.

これら2つを踏まえると,彼女たちの発言は画一化,矮小化された極めて薄っぺらなものとなります.
そして,このように薄っぺらな語りは時として陳腐化して,視聴者の共感を得られにくくなっていると考えられます.

おそらく批判される作品の中には,彼女たちの言葉が陳腐化しており視聴者からの共感を得にくくなっていることが批判される原因の一つになっている場合があると考えます.

これらのことを総括すると,私の考えとしては「新美少女アニメにおける美少女の語りは画一化,矮小化されており,時として視聴者からの共感を得にくくなっている」となります.

もちろん今の私の考察(もとい妄想)はかなり結論ありきですすめられており,客観化されておらず納得行かない点も多々あります.また,新美少女アニメの中にも感動できる作品も多々あり,「視聴者の共感を得られない」なんていう私の杞憂を跳ねのけるような力強さを備えています.

但し,昨今のアニメにおける,「あるアニメにのめり込めるかどうか」を考える上で「世界観のリアリティ」も大事な基準となりますが,それと同時に「キャラの語りのリアリティ」も考える必要があるのではないかと思います.

次回は,具体例として「ガールズ&パンツァー」における美少女たちの語りについて考えてみようと思います.

美少女のアニメ考える(1)

ガールズ&パンツァーを観てて思ったのですが,近年では「きらら」を始めとして女の子だけが活躍するようなアニメが流行っているようです.
今回は,「女の子だけ」のアニメと,「女の子が主人公」であるアニメを比較して,女の子が主人公である理由や,女の子だけの空間について考えてみようと思います.

少女,美少女が主人公や重要な地位にあるアニメは以前のメインストリームでは以下の3つに大別されるものが大半でした.

ギャルゲもの:男の子1人に対して,1人もしくは複数の女の子が恋愛感情にある恋物語.※これは男主人公の場合が多い.(ラブひななど,
女児向け  :女児をターゲットにしているアニメ.小学生〜中学生の女の子が主人公であることが多い.(おジャ魔女など
少女漫画  :女の子主人公1人に対し,恋愛対象となる男性が1人または複数いるアニメ.男女間の恋愛(恋愛感情)を基軸に物語が進行する.(フルーツバスケットなど

つまり,今までの物語の女性の扱いというのは,「男性から見た(セックスの対象としての)女性」かもしくは「女性が描く女性」であったと言えます.

それに対して,近年では,以前では男性主人公を中心に語れることが多かった物語が女性主人公を中心として描かれることが多くなっています.
スポーツ:バンブーブレード,大正野球娘など
SF,ロボット:輪廻のラグランジェ,宇宙をかける少女,など

ここで注意しなければならないのは,これらの作品群は今までの美少女&ロボットものとは一線を画すということです.
美少女&ロボットというのは,往年の作品で言うと「トップをねらえ!」や,「エヴァンゲリオン」など,ヒロインがロボットに乗り込み戦うという作品を指して使われてきました.
ここでの美少女とはあくまで「セックス」としての女性であって,男性からの視線を意識した女性でした.
また,少女は男性の付属品や代替品であることが多く,「戦隊もののピンク」的なポジションに甘んじる事が多かったです.

それに対し,近年の美少女ものは登場人物の大半が女性であり,女性がロボットに乗ることへの特権性などが意識されることは殆どありません.また,登場人物の大半が女性になることによって男性的な目線が排除されています.

例えば,近年の作品では「輪廻のラグランジェ」が好例と言えます.この作品では,主人公の京乃まどかはあくまでも「ジャージ部部長」であり,背景に横たわる世界の危機などは完全に見えなくなっています.また「大正野球娘」は,物語の動かす理由として「男性に対抗する」という意識があり,男性の目線を意識するシーンも見られましたが,基本的には終始女性の「部活」としてで物語が構成されていました.
このような,女性が主体となって語られる作品群を暫定的に新美少女アニメと呼ぶこととします.

美少女アニメに含まれるアニメを以下に示します.
がくえんゆーとぴあまなびストレート!,けいおん!ひだまりスケッチソ・ラ・ノ・ヲ・トみなみけ,咲,かなめも,とある科学の超電磁砲etc
今回のガールズ&パンツァーも,新美少女アニメにカテゴライズされるものであると考えられます.

このような,新美少女アニメはそれまでと比べてどのように変化したのでしょうか?

一つ考えられるのは,「シニフィエの変化」です.
上述しましたが,男性が排除されることにより「性の区別」が失われます.それにより,必然的に女性であることの意味が変質していると思われます.

今まで物語内に男性と女性が存在することにより異性間相互作用(異性の目線,その意識,恋愛感情)が生じていました.そして,あるキャラ同士がヘテロか,ホモか,ホモでも男性同士か女性同士かで関係性が大きく変わっていたわけです.しかし物語内に女性しかいないと関係の多様性が狭まります.そのため,生じるドラマの多様性も失われます.
これに対抗して生まれたのが「百合的なもの」であると考えられます.「対抗して生まれた」と書きましたが,女性同士の物語を紡ぐために「百合的なもの」が生まれたのではなく,女性同士の物語を紡ぐ上で「百合的なもの」が便利であったのでそれを用いたという認識です.
ともあれ,「百合的なもの」を活用することにより女性同士の物語を描くためのハードルは大きく下がったと言えます.

そして,男性を必要としない女性同士の関係が「女性であることの意味を失い」,且つ今まで男性が担ってきた恋愛感情を「(百合的なものによって)女性が代用することになり」,結果としてこれらの女性達は女性でありながら,女性を超越するユニセックス的な存在となりました.

※但し,女性のキャラクターの多様性をもたらしたのはあくまで男性の目線によるものであったことを忘れてはなりません.

次に,新美少女アニメはあくまで「日常」の上に描かれており,「部活的な人間関係を持っている」ことが挙げられます.
これには,「4コマ萌え漫画(あずまんが大王,「きらら」,みなみけなど)」の影響と「セカイ系」の影響が大きいと思います.
セカイ系」により,私たちの日常の延長線上に世界の危機が存在するという物語が可能になりました.
今まで,「国家」や「世界」というものを背景にして語られてきた主人公の物語は「日常」の物語に矮小化され,「日常」と「世界」が接続することになりました.
また.「4コマ萌え漫画」により,女性同士の「日常」を面白おかしく描くスタイルが確立されました.これらの作品群には「部活的な人間関係」が多い理由は,部活的な人間関係が使いやすいこと,既に部活的人間関係の関係性が確立していたことが大きいと思います.(例えば,先輩後輩,仲間,友達,恋愛関係など
これら2つの影響により,女性同士の「日常」がそのまま「世界」に接続する物語が語りやすくなった,と言えます.
上述の例ではどちらも「部活」を中心として人間関係で構成されている日常の地平線上にある物語です.


さて,新美少女アニメの構成について見てきましたが,続いて「美少女が語ることの意味」について見ていきたいと思います.

次号へ続く...

誕生日と,教育について一塾講師が思うこと

昨日23歳の誕生日を迎えた某塾講師ことしがない大学生です.今年は「自立」をテーマに頑張ってみようと思います.

久しぶりのブログ更新となりましたが,本日は塾の運営と講師をテーマに投稿してみようと思います.(アニメネタでなくすいません(^_^;))

就活中の友人に聞いたのですが,最近塾講師志望の大学生が多いらしいです,どうやら,バイトで塾講師にのめり込んで,今の職場で働きたいと思う方が多いみたいです.

私は,塾講師というバイト先は(バイトとしての)長所短所がはっきり出る職場だと思っています.つまり,「自分には向いている」「自分には向いていない」がはっきりしているバイトということです.

というのも,塾講師の場合,かなり自分の采配で業務に積極的に関わることが出来るからです.

例えばコンビニの場合,いくら自分が業務に対して積極的な感情を抱いていたとしても任される仕事は発注がいいところと言えるでしょう.

それに対して,塾講師の場合,保護者,生徒の方と一対一の関係になれるため,かなり責任感のある仕事を出来ることがあります.(これは会社によって差があるかもしれません)
これが塾講師の醍醐味だと思うわけですが,このようなシステムは一方で二極化を生む可能性を孕んでいます.

二極化とは,「業務に対して積極的になれる人」(極端に言うとバイト戦士というやつです)と「業務に対して積極的になれない人」(ながらバイトとでも言っておきましょうか)の差が激しくなるということです.

このような二極化が進行すると私が考える理由としては「業務に自由に関われるが故に,コミュニティに同調圧力が生じる」からです.

例を一つ挙げます.10人のバイトと1人の社員がいるコミュニティがあるとします.バイトの中に2人「バイト戦士」がいると,彼等が中心となって「バイト職員のスキルアップ」の取り組みが始まります.そうすると,そのような環境に順応出来る人と,「めんどくさい」として業務からエスケープする人の分離が始まります.
問題なのは,塾講師の場合,一旦積極的に関わり始めると抜け出せなくなるというジレンマが’あることです.
これは,他のバイトと異なり塾講師の場合,バイトでも保護者や社員に「この職員ならこのような授業をしてもらえる」「このような仕事を任せられる」という期待に繋がりやすいことが大きいです.

このように,塾講師というバイトは職への自由度が高いゆえに一度嵌ると抜け出せない蟻地獄のような構造になっていると言えます.

塾講師のバイトに対して否定的な意見を書き連ねましたが,一方でこのようなシステムは職員のアイデンティティを増長する役割を果たしています.つまり,「ここにいる意味」を探しやすいということです.
これは,上述したように塾講師がある程度代替不可能な職業という側面を考えていただければ容易に納得して頂けると思います.



さて,私が問題提起したいのは,塾講師がこのような環境に置かれることで,「塾の職員が先細りするのではないか?」ということです.

私は何事においても「多様性」というものが大事であると考えています.(賛否両論あるかもしれません)
これは塾講師においても同様です.この場合の多様性とは即ち,「やる気のある講師とあまりない講師がバランスよく配置されている」ということです.

塾に生徒を預ける側としては,講師がやる気に満ちあふれていることが嬉しいに越したことはないですが,バイトは世を動かしている塾業界,中々そうも行きません.

そうすると,バイトが「やる気にあふれた人」で先鋭化することは一見よいことに見えますが,これはかなり危険であります,

何故なら,そのような環境になった場合,やる気のない人がどんどん退職し,「やる気のある職員」のみが授業を受け持つようになり彼等の負担が増大するからです.

このような環境では,いざやる気のある職員が病気になったり,鬱で退職したりすると均衡が崩壊します.

それを避けるため,職員の多様化をもたらし,「ある程度やる気がなくても働ける職場づくり」が必要と私は考えます.

これはある意味社会主義的であり,賛同されない方も多いと思います.

しかし私は,このような正規職へのハードルが高い今だからこそ職のスキルそのものへのハードルを下げてやる必要があるように感じます,

もしくは,職へのハードルを下げずに,職へのインセンティブを上げるという解決策もあります.これは,具体的な例を挙げると「あの人がいるからこの職場で働きたい」というような意識を従業員に持たせることです.

しかし,これはそのリーダーが交代するとシステムが容易に崩壊します.

そのため,塾業界で必要とされるシステムとは「誰が働いてもいいけど,誰もがやりがいを感じることが出来る職場」であると思います.

これは二律背反であると思われますが,実現不可能ではないと思います.

それには,バイトレベルで要求される仕事を社員が吸い上げ,社員が適宜アドバイスするということです.

これは,今まで「バイトが積極的に関われていた」関係を打ち切りバイトと社員の関係をはっきり分けることです.

これにより,バイトの管理を通して「誰が働いてもいいけど」を実現し,一方,社員のアドバイスを通じて「誰もがやりがいを感じることが出来る」職場を実現できると考えます.

重要なのは,責任ある立場の人が管理を徹底することです.
但しそれは同調圧力的なものや,パワハラ的なものではあってはならず,あくまでアドバイスに留めることです.

今バイトをしている若者世代は,私が言うのは憚られますが極めて真面目であると思います.
大事なのは,それを管理し誘導する上の世代の技量です.





今後の塾業界を支える上で益々バイトの役割は重要になっていくと思います.その中で,「如何にバイトが働きやすい(圧力を感じずに働ける)環境を作るか」が今後問題になっていくような気になって仕方がありません.

ポーの一族

ポーの一族のテーマの一つは「生と死」である.『ポーの一族』の第1話でエドガーはこう述べている.「…なぜ生きているのかって… それがわかれば! 創るものもなく生みだすものもなく うつるつぎの世代にたくす遺産もなく 長いときをなぜこうして生きているのか …すくなくともぼくは ああすくなくともぼくは…」  エドガーを始めとする「ポーの一族」,別名バンパネラは老いることなく永遠の刻を過ごす.エドガーは「なぜ生きてそこにいるのだこの悪魔!」  という罵倒に,上のようにペシミスティックな思索で応えるのである.このように,永遠の刻を生きるバンパネラが,人が生きる社会をどのように生き,干渉するのかが今作の大きなテーマである.
2人のバンパネラであるエドガーとアランは,旅を重ね,生を送って行く中で様々な人間と出会う.ある時は,山賊に家族を殺され,一人残された娘の世話をしたり,ある時は秘密を知られたクラスメートをバンパネラに変えてしまったりする.またある時は女性に対して恋心を抱く…そのような経験が果たして何をもたらすのか.
最終話,アランを失ったエドガーは炎に包まれた家の中で,昔を回想しながら次のように思う.「…帰ろう帰ろう 遠い過去へ… もう明日へは行かない 昔昔の幸せ 帰ろう帰ろう時を飛んで みんなみんな …アハハ …アハハ みんなみんな… …あはは」  このように,エドガーは最期に自らの時を進めることを放棄する.(但し,その後エドガーが本当に死んだかどうかは定かではない)
上のエドガーの思索を踏まえると,先ほどの「エドガーの経験が何をもたらすか」という問いの答えは,少なくともエドガーに対しては何ももたらさなかったと言える.しかし,果たして本当にそうだろうか.
 エドガーとアランが旅を続けてきたのは,単に生きるためだけに生きるのではなく,生きることの喜び,また生き続けることの目的があったのではないだろうか.
生きることの喜びという点では,例えば「リデル森の中」で,エドガーとアランがリデルという女の子を育てる話で見出される.この話は上述したように,家族を失った娘を2人のバンパネラが育てるのであるが,ここで彼らは明らかに「人と関わることに生の喜びを見出している」のである.
これは,彼らがいくらバンパネラになったとしても人の心を持ち,人として生きたいという欲求を備えているということである.
もう一点の生き続けることの目的という点では,「メリーベルの存在」が挙げられる.メリーベルは第一話で殺されてしまうのであるが,エドガーはアランと二人になった後も彼女の事を考え続ける.そして,様々な町,様々な人々との出会いの中に彼女の面影,彼女との思い出を見出そうとする.
このように,エドガーとアラン,バンパネラという死を忘れた存在であっても,人と関わることにより人のように生きることが可能ではないのだろうか.
次に,バンパネラと関わりをもった人々の事について考える.これらの人々についてはそのケースに応じて明暗が分かれている.例えば,上述したリデルの場合,二人と別れた後もきちんと育てられ,2人の記憶を湛えながら生を全うする.逆に,「ホームズの帽子」で登場するジョン・オービンはバンパネラの秘密に魅せられてしまう.また,「小鳥の巣」で現れるマチアスは二人の正体を知った故に結局死んでしまう.
バンパネラと関わることが,人にとって悪夢となるか,それとも福音となるかは分からないが,その人の人生を変えてしまうことは確かである.だが,それはバンパネラに限ることではない.
我々はこの社会を生きている中で,様々な人と出会い,成長し,恋をして大人になる.それは,バンパネラであるアランがエディスに恋をすることや,その姉であるシャーロッテを助けられず後悔することと全く等価な経験ではないだろうか.また,長い刻を生きるエドガーがメリーベルの面影を追い求めることや,アランをバンパネラに変えてしまうことも…
我々にとって大事なのは,何と出会い,どう関わるか,すなわち「どれだけ生きるか」よりも「どう生きるか」ではないだろうか.『ポーの一族』にはバンパネラという「永遠の生を生きる存在」を描くことで,逆説的に「今を生きることの有意味性」を描き出そうとしているように感じられる.

フローベール『感情教育』感想,もしくはSF的美少女への愛

今日は,@kbtysk33さん主催のフローベール『感情教育』の読書会に参加しました!
私も含め参加者は5人だったのですが,発表者である@danse_des_oursさんの考察,分析が素晴らしく感動しました〜.@danse_des_oursさんはまだ学部生(修士2年生とのことです,danse_des_oursさんすいませんm(_ _)m 2012/07/09 1:33追記)ということが幅広い知見をお持ちで,違う学問分野ではありますが,探求の姿勢は見習わなければならないと深く反省した次第です(-_-;)

というわけで,本日はタイトルの通り『感情教育』の感想を綴ってみます.
私は理工学部生ということもありフランス文学,及び文学史には疎いので,今までの自分の映像体験や読書体験と照らしあわせてとりとめもなく感想をまとめようと思います.

『感情教育』は青年フレデリックが首都であるパリと地方ル・アーヴル(ノジャンでした)でアルヌー夫人を始めとする様々な夢を夢想し,そして挫折していく「青春小説」です.(と私は考えています)

この作品中で,フレデリックは3人の女性と恋に落ちます,それがアルヌー夫人,ダンブルーズ夫人,ロザネットです.本当はもう一人ルイズという主要な人物がいますが,フレデリックが直接的な関係を持つに至りません(といってもちゃっかり結婚の約束とかするのですが.

高砂伸邦は『フローベールの自伝系列作品等にみるフェティシスムの影』の中で,この3人との恋愛について次のように述べています.

「繊細で”醒めて夢みる人”フレデリックが追い求める3つの愛,ロザネットを対象とした”肉のための愛”,ダンブルーズ夫人を対象とした”社会的野心のための愛”,そしてアルヌー夫人を対象とした”愛のための愛”において前2者は破綻を来たし,後者は結実しないまま終わるが,その寿命は,彼が当の女性にいだく夢想の強さに準じるかたちになっている.(中略)一方,フレデリックが”感謝の心のほとばしりに似た無言の歓喜”,”ほかのことは忘れきるほどの無我の境”,さらに”宗教的な畏怖”さえも感じるアルヌー夫人との関係においては,夢想が絶対的優位をしめる(強調筆者)」

ここで高砂が言うように,ダンブルーズ夫人やロザネットへの愛は即物的な愛と言ってもよく,肉欲だったり,社会的名誉だったりを満たすための道具であります.それに対して,アルヌー夫人への愛は,情欲もありますがプラトニックなものに終始します.
また,ダンブルーズ夫人やロザネットはフレデリックの視点による「身体の描写」が多いのに対し,アルヌー夫人に対しては「夢想の想起」が圧倒的に多いです.
このことについて高砂は「夫人の本体を追い出した”人間の境地”の跡地に,彼は夫人の代替品つまりフェティッシュを据えるのである」と述べている.
この意見に対して私は,フレデリックにとってのアルヌー夫人はフェティッシュよりもアニメ,マンガの文脈で言う「美少女」なのではないかと考えます.
というよりも,フレデリックに感情移入した「私」が体験するアルヌー夫人が「美少女」である,という方が正しいかもしれません.
フレデリック(もしくは私)はアルヌー夫人と決して結ばれることが出来ないからこそ,彼女の痕跡に執着し(アルヌー家の家具が競売にかけられるシーン),夢想を繰り返し,神格化するのだと思います.

ここで注目したいのが,この小説のラストでフレデリックがアルヌー夫人と邂逅を果たすシーンです.
このシーンでのアルヌー夫人は白髪を湛えており,最早フレデリックが恋焦がれた女性ではありません.そこでフレデリックはその幻滅を隠すため,過去の彼女への賛辞を述べながら,「自分で自分の言葉に酔い,いっていることを信じこむ」のです.
そして別れ際,アルヌー夫人はフレデリックに,自分の白い髪を一束手渡し,「とっておいてくださいな.さよなら!」と去ります.

このシーンではフレデリックにとってその瞬間まで理想の美であったアルヌー夫人が年老いていたことに対する幻滅とそれを感じまいと必死に努力する彼が描かれています.つまり,フレデリック(私)は「美少女の喪失」を経験したのです.これがこの小説におけるカタルシスなのではないでしょうか?

ところで,「美少女の喪失」というモチーフはSF的な美少女を彷彿とさせます.
なぜならSFにおける恋愛では,しばしばこのようなモチーフが援用されるように思うからです.例えば「恋していた女性が実はアンドロイドだった」「愛する異性とウラシマ効果によって隔てられる」などがそれです.
もちろん,一般の小説でも愛する女性が急に失われるなんていうのはザラですが(それこそケータイ小説なんかちょっとした殺人事件のごとく恋人が死ぬので),「時間的,空間的な断絶」や「イデアの崩壊,喪失」というものを描く上でSFよりも最適なジャンルは考えられません.(少なくとも僕の中では

なぜ急にSFの話になったといいますと,この『感情教育』のラストシーンを読んで私が想起したのが『イリヤの空、UFOの夏』(以下イリヤ)だったからです.それは『イリヤ』にも『美少女の喪失』と『白い髪』という2つの記号が含まれるからだと思われます.

『イリヤ』においては,『美少女の喪失』は2度描かれます.一つは「身体の崩壊」による喪失,もう一つは文字通り「存在の喪失」です.「身体の崩壊」による喪失とは,伊里野が浅羽との逃避行において,精神的に退行し,身体的にも著しい不調をきたすからです.ここで重要なのは,伊里野が「白髪化していること」と一夜の内に「崩壊」することです.また,次の「存在の喪失」は伊里野が敵との戦闘のため浅羽を置いて旅立つことによって発生します.
小説中においては浅羽が「美少女の喪失」を意識する描写はありませんが,壊れた少女を必死に介護する浅羽と,理想を保とうとするフレデリックはどことなく被って見えないでしょうか?(私だけですよね...

まとめると,私が『イリヤの空、UFOの夏』大好きだということですね!(身も蓋もない

原田さんのツイートから生活保護を考える

さて,久しぶりのブログ更新です.本日は生活保護について倫理的な観点から考えてみたいと思います.

というのも,声優の原田ひとみさんからこんなツイートが上がったからです.
https://twitter.com/vhitomin/status/219755561443536897

生活保護って、障害で働けなかったりシングルマザーで子供もいて働かなきゃいけなくてとか、誰からも援助を得られない方には絶対的にあるべきだと思うけど、その他の人にも必要なん(´・ω・`)? 日本って、アルバイトでも十分食べていけるよね(´・ω・`)

私も私的な事情により生活保護については考えるところがあったのですが,それにしてもこのツイートは目から鱗が落ちる思いでした.というのも,一般的な人の感覚を如実に表していると感じたからです.

今まで生活保護はその制度や不公平感,財政的な問題などがいっしょくたに語られてきたので複雑な様相を呈していましたが,問題を倫理的な観点のみに絞った場合,果たして我々はどこまで許容出来るのでしょうか?今回はこの問題について考えてみたいと思います.

1.生活保護は恥か?
生活保護日本国憲法の「最低限文化的な〜(ここらへんはテキトーに調べてもらえると幸いです)」という文を根拠に成立した法律であり,その意味では国家のシステムの一つと考えられます.それを考えると,「生活保護を受ける」という行為は国民全員が等しく有する権利であるので取り立てて「恥」と考えるべき問題ではないと思われます.ところが,国民全員とは言わないまでも多くの人々が「働くより生活保護のほうが楽で良い」と考えると国の運用という観点からは大問題です.この線引きが重要になってきます.つまり,国の運用という観点では生活保護は財政を圧迫するので減らしたいが,国民の権利であるのでそれを侵害することは出来ない,ということになるわけです.
そこで生まれたのが「生活保護は恥」という言説ではないかと思われます.生活保護は恥という言説は「生活保護は自分の金で食べることができない人々が国民の税金で生活させてもらっているので,これは恥である」というようなものです.これは庶民感情として十分納得できる論理ではないかと思います.「人様に迷惑をかけて生きているのだから恥である」のです.しかし,先程も述べられたように生活保護はシステムの一部であり国の予算を充てて運用しているものであるので「人様のお金」という見方は妥当ではないと思われます.ここを正しく捉えないと「公務員は国民の税金で暮らしているのだから〜」というよくわからない言説が生まれることになるわけです.要するに,生活保護は国のシステムなのだから,我々の批判の対象は生活保護受給者よりも国のシステム管理能力に批判の目を向けなければならないわけです.
まとめると,生活保護受給者に対する批判ではなく生活保護を運用する国に対する批判が正当であるということです.

2.生活保護は誰のためのものか?
生活保護の考え方をまとめたところで本題に移ります.今回のテーマは上のツイートにあるように「生活保護は誰のためのものか?」というものです.
原田さんの問題意識は「生活保護を運用するための費用には国の予算が充てられている.これは国民の税金である.なので,生活保護者に対する不正受給や,働けるのに働かないで生活保護を受けている人は不当である.よって制度を改正する必要がある」というものです.(と僕は解釈しました.
上述したように,生活保護に批判を向ける場合国,制度そのものを批判の対象とすべきであると考えるのでこの意見は妥当であると思います.また,上のツイートからも分かるように,生活保護のネックは「他人の金で生活する」というところにあるということが分かります.
そして,この次の原田さんのツイートが以下のものです.
https://twitter.com/vhitomin/status/219757200736919552


え、それは別にいいと思いますよ(笑)。何ら問題はないのではー。ただ、働けてゆとりもある程度はある筈なのに生活保護を受ける人が多いのは、国の制度がどうなのって思うだけです; RT @wolf_ako:親の脛かじりまくってる自宅警備員でごめんなさい・・・(´・ω・`)

ここで原田さんは「親の脛をかじる」ことについては「別にいい」と仰っています.「親の脛をかじる」という行為は「他人の金で生活する」ことの一つの形態でありますが,この違いはどこから来るのでしょう?

「親の脛をかじる」にも色いろあると思いますが,年齢別で考えるのがわかりやすいと思います.当然ながら20歳以下は基本的には「親の脛をかじる」という言説が適当でないくらい.扶養されて当然というのが多くの人の感覚だと思います.これは大学に通う場合とそうでない場合とでまた変わってくるのですが...大学に通っている場合は卒業まで養ってもらうのはある意味当然といって差し支えないと思われます.

問題なのは教育機関を卒業した後です.高卒の場合18〜.大卒だと22〜となりますが,この人が定職につかずに「親の脛をかじる」のは倫理的に問題がある行為でしょうか?

おそらく昨今の就職難の事情もあるので卒業から数年については「定職につけず親の脛をかじっている状態」に問題があるとおもわれる方は少ないのではないでしょうか?実際バイトしつつ,就活しつつ親と同居というパターンが結構あると思います.また,就活で鬱になり家で何もできずにいる方もいらっしゃるかもしれません.

但し,この状態を30以上でも続けている場合世間の目はかなり冷たくなるのではないでしょうか?それとも,「別に人様に迷惑をかけているわけではないのだからよしとする」のでしょうか?

私個人としては,「働くのが望ましいが,それは本人の自由である」といったところです.このような「親の脛をかじる」癖がついた人は,親がいなくなった後,生活保護を受ける確率が健全な生活を送っている人より高いと考えられるので(すいません,ソースはないです)このような層がいることはリスクがあると言えます.




逆に生活保護の場合,若年層で働けるときは批判の対象になりやすいですが,高齢になるにつれてその批判の度合は薄れていくと思います.(結局働けなくなるので
特に,定年を過ぎた方が生活保護を受けることに対する批判というのはあまりないかと思われます.


さて,人々はどのラインで生活保護を妥当だと考えるのでしょうか?
例えば,一人は親がある程度裕福なので,親に養ってもらい30歳になっても定職につかず毎日家でゴロゴロしています.もう一人は親が貧乏なので養ってもらえず,世帯を分けて30歳になった今働ける能力があるにもかかわらず生活保護を受けて毎日家でゴロゴロしています.この二人の違いはなんでしょうか?

やはり,後者は倫理的に許されず,前者は倫理的には問題がないのでしょうか?

または,20代毎日暴飲暴食を繰り返し,30代後半で脳出血を起こし働けなくなった人が生活保護を受けることになったとしたらこれは許容できることでしょうか?

もっと卑近な例では,生活保護受給者がパチンコを行うことは許されるのでしょうか?飲酒は?タバコは?生活保護受給者は普通に働いている人より裕福な暮らしをしてはならないのでしょうか?

最初に提示した問題では,私は倫理的なレベルではどちらも問題があると思います.「働ける能力があるのに行使しない」という道徳的な罪です.但し,実際問題としてははやはり法的,政治的,経済的な観点から後者のほうが罪が重いと考えられるわけです.

次に提示した問題では,働けない者は「どのような事情で働けなくなったにしろ」生活保護を受けることが許されるかというものです.上の状況ではある意味働けなくなったのは自業自得とも言えます.それでも生活保護を受けることは倫理的に問題がないのでしょうか?

私にはこれに見合う答えを用意することができません.それには,そもそもこのような問題があまり論じられて来なかったことが背景の一つにあるように思われます.

最後の問題は,生活保護の「不公平感」に関する問題です.国民の税金で暮らしている人は貧しい生活を慎ましく送る必要があるか?という問題です.

このように,生活保護については倫理的なレベルでまだまだ考えられるべき点が数多くあるように思います.制度改正は倫理的なベースが定まってからでも遅くはないと思います.