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断絶の象徴としての「天使」~映画けいおん!に見る梓の断絶~

メリークリスマス! 皆さんクリスマスイブはいかがでしたでしょうか?

私はけいおん!に癒された例年にない良いクリスマスだったと思います.

 

という訳で本日は映画けいおん!について思ったこと、特に「天使にふれたよ!」とあずにゃん問題についてつらつら述べてみようと思います.

 

けいおん!2期では梓視点で物語が進行していましたが,映画けいおん!では唯視点で物語が進行しています.これは,映画けいおん!が先輩メンバーから梓への継承を描いている物語だからです.

 

ここで注意したいのが,視点の変化があるにしろないにしろ,梓は徹底的に受動的な存在だということです.

 

梓が受動的な存在であることは私たち視聴者にとっては非常に心地よいものになっています。それは、梓=視聴者という構造のため、梓を中心とした擬似ハーレムが形成されているからです。

ところが、梓と唯達は学年が1つ離れているため、卒業後、必然的に梓は一人取り残されることになります。

 

そこで、今回の映画では、

「卒業する私達が梓にどのようなメッセージを残すか」

というテーマのもと物語が描かれています。

唯たちが梓に残したメッセージというのが、TV版でも流れた「天使にふれたよ!」であり、映画はテレビ中で明かされなかった歌詞の意味や、誕生秘話の物語でもあります。

 

さて、この「天使にふれたよ!」ですが、タイトルに含まれる「天使」とは「梓」を表しています。

ここでの天使の意味は、おそらく唯たち4人の軽音部メンバーに「幸福をもたらした存在」ということだと考えられます。

 

一見美しい比喩である「天使」ですが、この言葉は唯たちと梓との「断絶」を象徴的に表しているように思われます。

上述したように、梓=視聴者のため、唯たちと梓は同列の存在ではありません。同列の存在ではないということは、物語内において視聴者の感情移入の対象となるため特別な地位にあるということです。(たとえばドラえもんでのび太の扱いとジャイアンの扱いは同列ではありません。※といっても物語の視点の中心であるということ、と感情移入の対象であることは別に考えなければなりません。)

そのため、唯たちと梓は、登場人物の地位として「断絶」しているのです、

また、唯たちは卒業してしまうので、物語の流れとしても梓と唯たちは「断絶」しなければなりません。

 

このように、2重の意味で梓と唯たちは断絶しており、「天使」という言葉は、

「あなた(梓)は私たちにとって天使ではあるけれども、決して私たち(唯たち)とは相容れない存在」ということを象徴しているように思えます。

 

では、梓が唯たちと断絶することはマイナスなのでしょうか。

唯たちが卒業し梓が取り残されるということは、視聴者の現実への回帰を促す作用をもっています。何故なら唯たちがいない、擬似ハーレムの崩壊は、視聴者と唯たちが「断絶」していることを視聴者に認識させるからです。もちろん徹底的な断絶ではなく、「来年はあずにゃんの卒業旅行に行こう」という接続への希望を残してではありますが。

 

つまり、映画けいおん!で描きたかったのは「梓(=視聴者)と唯たちは卒業後(物語が終了後)もずっとつながっているよ。軽音部という環境はあなたにとって居心地のよい空間ですよ」ということではなく、「梓(=視聴者)と唯たちは徹底的に断絶しており、それは唯たちの卒業(物語の終了)によって嫌でも認識せざるを得ない。そして視聴者は逃避から脱却しそれぞれの現実世界へ戻らなければならない」ということではないかと考えられます。

 

あずにゃん問題が語られる背景も「梓が軽音部に一人でいること」よりも「梓(=視聴者)が取り残されること」のほうが実は重要なファクターなのではないでしょうか?